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日本海軍の艦隊 全集合(2) 日中戦争以前

 日本海軍の艦隊の変遷について説明しています。今回は日露戦争の後から日中戦争がはじまるまで。
 前回の記事は以下になります。

明治から大正にかけて

 日露戦争が終わった明治38(1905)年12月20日、戦時編制が解かれて平時体制に復帰したが戦前そのままでというわけではなかった。第一艦隊第二艦隊が併存した上で、南清艦隊練習艦隊が編成された。戦力は大幅に縮小され、戦艦はすべて艦隊からはずれ、第一、第二艦隊の主力はいずれも装甲巡洋艦となった。

 南清艦隊は最古参の防護巡洋艦浪速、高千穂と砲艦で編成され、中国大陸沿岸や揚子江水域の警備にあたった。明治41(1908)年12月24日に第三艦隊と改称した。
 明治のはじめから海軍兵学校を卒業した候補生は実習のため遠洋航海に出るのが通例だったが、それにあてられる部隊を正式に編成した。遠洋航海では数ヶ月から半年にもわたって日本を離れることになるので専属部隊をもうけた方が得策とされたのだろう。練習艦隊はいわゆる三景艦(松島、厳島、橋立)で編成されたが、明治41(1908)年4月30日遠洋航海の帰途、台湾の馬公に停泊中爆発事故を起こして沈没し候補生を含む乗員に多数の犠牲者を出した。これ以降、練習艦隊ではひとまず阿蘇、宗谷といった戦利艦が主に用いられたが次第に装甲巡洋艦が主用されるようになる。

 南清艦隊(第三艦隊)および練習艦隊の指揮官は司令官と称し、親補職の司令長官より格下だった。

 このころから11月末ごろを教育年度の切り替わりとして、前期は個艦や小部隊単位での基礎訓練、後期は艦隊レベルの合同訓練として、秋に全艦隊を動員した演習をおこなって教育年度の締めくくりとし、年度終わりで編制の変更や人事異動を行なうというサイクルが固まった。
 明治41(1908)年10月8日、秋の大演習にあわせて聯合艦隊が臨時編成され第一、第二の両艦隊を一時的に指揮下に置いた。聯合艦隊司令長官は、第一艦隊司令長官伊集院五郎中将が兼ねた。演習が終わった11月20日に解散したのだが、この年に限って聯合艦隊が編成された理由として、アメリカ海軍のいわゆるグレート・ホワイト・フリートが日本を訪れたことと無関係ではないだろう。アメリカ艦隊の横浜入港が10月18日、出港は10月25日である。

第一次大戦

 大正3(1914)年夏、ヨーロッパで第一次大戦が勃発した。聯合艦隊は編成されなかったが、第一、第二艦隊は増強され、特にドイツが租借している青島の攻略作戦に投入されることになった第二艦隊には軍艦のみならず運送艦や重砲隊、艦隊航空隊なども編入された。第二艦隊による青島攻略作戦はイギリス海軍との共同作戦で、両国艦隊を第二艦隊司令長官加藤定吉中将が指揮した。防護巡洋艦高千穂を失なうという犠牲を払いながら、11月中には青島の攻略を完了した。

 大正3(1914)年12月1日、艦隊条例が廃止されて艦隊令が新たに制定された。この改定の要点のひとつが戦隊の正式な設定である。これ以前、艦隊には指揮官である司令長官のほか、艦隊の一部を指揮させるための司令官が置かれた。ややこしいのは、小規模な艦隊には指揮官として司令官を置くとされていたことだ。例えば第一艦隊司令官は、司令長官の命を承けて第一艦隊の一部を指揮するのに対し、第三艦隊司令官は第三艦隊全体の指揮官であり、区別がつきにくい。今次改定で、艦隊の一部を戦隊とし司令官に指揮させることとされ、戦隊司令官は艦隊の一部である戦隊を指揮し、艦隊司令官は艦隊全体を指揮するという区別がつけられるようになった。
 なお戦隊という組織は日露戦争中に運用されていたが艦隊条例などには規定がなかった。第一次大戦により戦時体制となって再び戦隊編制がとられるようになったが、それを戦時平時問わない正式な組織として規定したことになる。戦隊には軍艦を主体とする戦隊と、駆逐艦を主体とする水雷戦隊があった。

 第一次大戦が始まると船団護衛のための小部隊が複数編成されて派遣された。第一南遣枝隊、第二南遣枝隊、特別南遣枝隊、遣米枝隊などが順次編成されたが艦隊以下の部隊であり割愛する。

 大正4(1915)年12月13日、第三艦隊の指揮官が司令長官には格上げされ、戦隊構成をとることになった。この少し前、11月11日に聯合艦隊が編成され(第一艦隊司令長官吉松茂太郎中将が兼務)、第一、第二、第三艦隊を編入した。演習終了後の12月13日に解散されたが、明治41(1908)年の前例以後、7年ぶりに演習のため聯合艦隊が編成されることになった。以降大正10(1921)年まで、毎年度秋の演習にあわせて聯合艦隊を編成することが通例となる。

 ドイツが無制限潜水艦戦を宣言して第一次大戦が頂点を迎えようとする大正6(1917)年、イギリスをはじめとする連合国は日本に船団護衛へのさらなる貢献を求めてきた。それに応えて日本海軍では3個の特務艦隊を編成して派遣することとなる。第一特務艦隊はインド洋、第二特務艦隊は地中海、第三特務艦隊はオーストラリア東部に派遣されたが、このうち第二特務艦隊は特にドイツやオーストリアの潜水艦が活発に活動していた地中海で苦戦を強いられた。

 第一次大戦末期には第三特務艦隊を廃止して遣支艦隊を編成したが、大戦が終結した大正8(1919)年に特務艦隊と遣支艦隊を廃止して華中を担当する第一遣外艦隊、華北を担当する第二遣外艦隊が編成された。

 大正5(1916)年12月1日の艦隊編制では第三艦隊に潜水隊を主体とする第四水雷戦隊が編成されたが、大正8(1919)年12月1日にはじめての第一潜水戦隊が第二艦隊に編成された。

軍縮時代

 第一次大戦が終わると日米のあいだで建艦競争がはじまったが、世界的な厭戦気分にくわえ、過重な軍備負担に苦しむ日米と、それについていけない英仏伊の思惑が一致して軍縮条約が成立した。
 日本海軍の毎年度の艦隊編制では、第一、第二、第三艦隊と第一、第二遣外艦隊、そして練習艦隊が書類の上では存在したが、第三艦隊と第二遣外艦隊は当分の間これを置かず、事実上編成されないことになった。もう少し細かい説明をすると、大正11(1922)年度〜大正10(1921)年12月1日付〜には第二艦隊と第二遣外艦隊が空欄、つまり所属艦船部隊なしであり、大正12(1923)年度以降は第三艦隊と第二遣外艦隊が空欄となった。

 その代償というわけでもあるまいが、大正12(1923)年度〜大正11(1922)年12月1日付〜から聯合艦隊が通年編成され、第一、第二艦隊をあわせ指揮することになる。そのはじめての司令長官は竹下勇中将で、第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官の辞令を受けた。
 大正13(1924)年度は鈴木貫太郎が、大正14(1925)、15(1926)年度は岡田啓介が聯合艦隊司令長官をつとめた。元号がかわって昭和2(1927)、3(1928)年度は加藤寛治が、昭和4(1929)年度は谷口尚真が聯合艦隊司令長官をつとめている。

 中国大陸では広東から北上して揚子江流域を制圧した国民党軍が、いよいよ北京政府を打倒するべく蒋介石の指揮のもと北上をはじめようとしていた。北伐軍が山東省済南に近づくと日本は居留民保護のために出兵した。その支援のために第二遣外艦隊が昭和2(1927)年5月16日に編成された。北伐軍はひとまず撤退したが翌昭和3(1928)年に再開して北京を陥れ、本土統一を成し遂げた。済南では出兵した日本軍と北伐軍のあいだで武力衝突が起こり、奉天では北京から逃げ出した張作霖を関東軍が爆殺した。

 昭和3(1928)年には航空母艦からなる航空戦隊を編成し聯合艦隊の直属とした。この状態は昭和7(1932)年に第三艦隊に第一航空戦隊が編入されるまで続いた。

 昭和5(1930)、6(1931)年度は山本英輔が聯合艦隊司令長官を任された。

満州・上海事変

 昭和7(1932)、8(1933)年度の聯合艦隊司令長官は小林躋造だった。昭和6(1931)年9月にはじまった満州事変は海軍にとっては他人事に等しかったが、翌昭和7(1932)年に上海に飛び火すると俄然本気になった。2月2日、第一遣外艦隊を基幹として第三艦隊が編成された。司令長官に親補されたのは野村吉三郎中将である。

 上海事変がひと段落した昭和8(1933)年4月20日には第二遣外艦隊を当面編成せず、5月20日第一遣外艦隊も同様とし、かわりに第三艦隊と聯合艦隊を常設とした。小林躋造大将(昭和8年3月1日進級)の辞令は聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官と改まる。

 昭和9(1934)年度は末次信正が、昭和10(1935)、11(1936)年度は高橋三吉が聯合艦隊司令長官をつとめた。昭和12(1937)年度ははじめ米内光政中将が聯合艦隊司令長官に補職されたが、政変で海軍大臣に就任することになり永野修身大将と文字通り交換した。

おわりに

 途中、第一次大戦を挟んで長い平時のあいだに日本海軍の艦隊編制はゆっくりと前進してたんだなあと思いました。

 次回は日中戦争から太平洋戦争開戦までを予定しています。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は青島攻略作戦当時の第二艦隊旗艦であった戦艦周防)

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