見出し画像

日本海軍の艦隊 全集合(1) 日露戦争まで

 日本海軍の艦隊の変遷を追ってみようと思います。初回は明治初期から日露戦争まで。

初期の艦隊

 日本海軍ではじめに艦隊が編成されたのは明治3(1870)年7月28日(旧暦)に普仏戦争の勃発にともなって中立維持のため小艦隊を編成して横浜、兵庫、長崎、函館各港に警備のための軍艦を配備したときのことである。小艦隊は明治5(1872)年5月18日に中艦隊と改称したが明治8(1875)年10月28日に解散して軍艦は東部指揮官と西部指揮官に分割配属された。東西両部指揮官はやがて鎮守府の母体になる。

 西南戦争前の明治8(1875)年に計画されイギリスに発注された近代軍艦(扶桑、金剛、比叡)の就役は戦後になった。その戦力化がようやくなった明治15(1882)年10月12日、再び中艦隊が編入され、司令官には薩摩出身の仁礼景範少将が就任した。明治18(1885)年12月28日に常備小艦隊と改称する。明治19(1886)年8月9日には当時世界で最優秀といわれた防護巡洋艦浪速、高千穂(ともにイギリス製)が編入された。
 明治22(1889)年7月24日、常備小艦隊が常備艦隊と改称され、司令長官には井上良馨少将が常備小艦隊司令官から横滑りした。この時点で艦隊に配属されていたのは浪速、高千穂、扶桑、葛城、大和、武蔵であった。

日清戦争と聯合艦隊のはじまり

 その後、松島、厳島、吉野、秋津洲、橋立といった軍艦が配属された。明らかに防護巡洋艦が主力だった。この状態で日清戦争を迎える。明治27(1894)年7月13日、常備艦隊に編入されていない軍艦を集めて警備艦隊を編成した。司令長官は相浦紀道少将である。19日には警備艦隊を西海艦隊と改称し、常備艦隊とあわせて聯合艦隊に編入される。後世その名を轟かすことになる聯合艦隊がはじめて編成された。聯合艦隊司令長官は、常備艦隊司令長官である伊東祐亨中将が兼務した。
 この時点で常備艦隊には松島以下軍艦16隻(松島、浪速、吉野、千代田、厳島、橋立、高千穂、秋津洲、扶桑、八重山、筑紫、比叡、摩耶、天城、愛宕、鳥海)、運送船2隻、水雷艇6隻が配属され、西海艦隊には軍艦8隻(天龍、大和、葛城、高雄、赤城、武蔵、大島、磐城)、運送船1隻が所属していた。
 当時艦隊には司令長官の他に艦隊の一部を指揮する司令官職がおかれていた。伊東長官は本隊を直接指揮したが、防護巡洋艦などの比較的高速な軍艦で第一遊撃隊を臨時編成して常備艦隊司令官坪井航三少将が指揮した。この第一遊撃隊が9月23日の黄海海戦で活躍したのは周知のことである。
 翌明治28(1895)年2月に威海衛が陥落して清国艦隊が壊滅すると戦争の帰趨は明らかとなり下関条約が結ばれて戦争は終結した。しかしその後も新たに日本領となった台湾の占領に手間取り、西海艦隊が最終的に解隊されたのは11月15日だった。聯合艦隊も同日に解隊されたとみられ、常備艦隊だけが残り平時体制に復帰した。なお戦時大本営の復員は翌明治29(1896)年3月31日になる。

日露戦争

 明治30(1897)年6月14日、イギリスから到着した戦艦富士が常備艦隊に編入された。富士は当時としては最新鋭の戦艦で日本海軍としてはじめて世界最強レベルの軍艦でもあった。富士などの計画がはじまったのは日清戦争以前だったが、本格化するのは日清戦争後で、清国からの賠償金がそのために注ぎ込まれた。
 明治32(1899)年10月27日には日本で最初の装甲巡洋艦常磐が常備艦隊に編入され、戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻からなるいわゆる六六艦隊の実現に向けて着々と整備が進められた。最後となる戦艦三笠が常備艦隊に編入されたのは明治36(1903)年7月21日、日露戦争が始まる半年前のことだった。

 明治36(1903)年10月19日、常備艦隊司令長官日高壮之丞中将が更迭されて東郷平八郎に代わった。12月28日には第一、第二、第三艦隊を編成して第一、第二艦隊をあわせ指揮する聯合艦隊司令部を置いた。戦艦を主力とする第一艦隊の司令長官には東郷平八郎中将が、装甲巡洋艦を主力とする第二艦隊の司令長官には上村彦之丞中将が、比較的旧式な軍艦を中心に編成された第三艦隊の司令長官には片岡七郎中将が補職され、聯合艦隊司令長官は東郷中将が兼ねた。
 第三艦隊が聯合艦隊の指揮から外れたのは主に本土や朝鮮海峡の警備にあてることを想定していて、聯合艦隊のようにロシア艦隊主力と決戦することは想定されていなかったためといわれる。しかし聯合艦隊主力は目論んでいたロシア艦隊の早期撃滅に失敗した。長期にわたる封鎖を余儀なくされ、個艦の性能よりも数が求められるようになった。一方で日本近海に出没するロシアのウラジオストク戦隊による通商破壊には第三艦隊の旧式艦では対応できなくなった。結果として3月4日、第三艦隊は聯合艦隊に編入されて旅順港の封鎖にもあたることになり、ウラジオストク戦隊の追跡はもっぱら第二艦隊が担うことになった。
 旅順封鎖は一年近く続いた。8月10日の黄海海戦、14日の蔚山沖海戦を経て明治38(1905)年1月についに旅順が開城し、旅順のロシア艦隊はあるいは自沈しあるいは捕獲され、極東の制海権は日本が掌握した。それを挽回しようとする最後の試みであるバルチック艦隊の回航は、5月27日から28日にかけて繰り広げられた日本海海戦の結果、完全に粉砕された。ロシア海軍の脅威が完全に消滅すると講和をにらんでロシア領土の占領が計画される。日露間の戦場となった満州は清国領で、それまで日本はロシア領をまったく占領していなかった。6月14日、樺太占領のために第四艦隊が編成され第一艦隊司令官の出羽重遠中将が第四艦隊司令長官に補職された。第四艦隊の主力は日清戦争のベテランである三景艦(松島、厳島、橋立)だった。

 明治38(1905)年12月20日をもって戦時編制は解かれ、聯合艦隊司令部、第三、第四艦隊は解散し、第一、第二艦隊のみが残った。新たに中国沿岸を警備する南清艦隊と、候補生の遠洋練習航海にあたる練習艦隊が編成された。

おわりに

 なんとなく「艦隊これくしょん」という文字列から思いついた企画ですが、そのままタイトルにするのはさすがにはばかられました。自分はゲームやってないし。個人的に擬人化もあまり好みではありません。ふと思ったのですが、あのゲームは厳密に言えば「艦隊これくしょん」というより「軍艦これくしょん」だよなあなどと。どうでもいいですが。

 日本海軍の艦隊は明治3年というごく初期から編成されていましたがその実態は様々な軍艦の寄せ集めで艦隊とは名ばかりでした。ようやく日清戦争でそれらしい形が現れはじめ、日露戦争でバランスがとれた形の艦隊が実現するまでには30年以上の年月を要しました。

 次回は日露戦争の後、日中戦争の前までを取り上げようと思います。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は軍艦扶桑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?