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字足らずの脆さと勇気

お盆明けから、高校生の『市民大会』が始まった。高校生の最高舞台は、ご存知『全国高校サッカー選手権』で、その県予選は9月から始まる。その前に、市内に属する高校だけで行われるのが市民大会。

うちの高校は進学の意識が強くて、例年ならば春のインターハイ予選で3年生は引退してしまうのだけれど、今年はコロナのせいでインターハイ自体が中止となり、それもあってか、3年生の半分はこの市民大会まではやる、という位置づけだった。もう半分は、選手権予選まで残ると。

1、2回戦を勝ち抜き、準決勝。
県内でも【強豪】にカテゴライズされる高校との対戦だった。でも決してリスペクトし過ぎることなく、最終ラインからでも勇気を持ってボールを握り、繋ぎ、いなし、ときには果敢に勝負を挑みながら前進する。彼らが魅せてくれたその姿は、猛暑を忘れてしまうほどに見事だった。俺もベンチで一緒に戦いたいと、心からそう思えた。

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大きく!(クリア)と言うのは簡単。どこもかしこも、気軽にそう言う人はいる。でもそれを大人が言ってしまえば、大切な何かを失う。その局面での陣地は挽回できるけれど、それでは、こちらの良さは生きない。

良さどころか、それをもっと超越した、大切な「何か」を失う。

何か とは、何か。

この試合の前週、練習試合の場で、高校でサッカーをするならば『マインド』が大事だ、という話を彼らにした。

・勇気を持つこと
・美意識や拘りを持つこと
・遊び心を忘れないこと

【勇気】
戦うには勇気が必要で、勇気を持つには武器が必要。
武器とは技術のことだけれど、その武器を人のために使えたとき、少年は大人になる。
戦うために必要な【闘争心】も、ここにカテゴライズされる。

【美意識と拘り】
ただ勝てばいいってもんじゃない。元来、フットボールは美しいものだ。
美しく、自らを表現してこそフットボール。
それぞれが想う「美しさ」を、妥協することなく表現してほしい。美意識を持ちながらフットボールを楽しむことは、勝つことよりも優先される。僕は本気でそう思っている。

美意識とは少し違うかもしれないけれど、拘りとは、どんなに苦境になっても「これだけは捨てない」と思えるものを持ちながらプレーすること。技術でも、マインドでも何でもいい。「これを捨てたら俺じゃない」という拘りを持てるなんて、幸せなことじゃないか。

【遊び心】
どんな試合でも、どんな相手でも、どんな場面でも ただ一生懸命に熱くプレーするだけでは、心も体も持たない。相手との駆け引きを楽しみながら、遊び心を持って局面を楽しみ、賢くプレーすること。
闘争心と同様に必要な【冷静さ】も、ここにカテゴライズされる。やわらかく、冷静に。

以上が、彼らに伝えた《マインド》のはなし。

技術や戦術も大事だが、マインドはそれ以上に大事なこと。この《マインド》をどう持つかというところにチームのアイデンティティーは表れると思うし、フットボーラーとしての、選手個々のプライドやアイデンティティーにも関わってくる。

**自分が自分でいられるための、生命線みたいなもの **と言えるだろう。

もう少しだけ付け加えると
勇気 ⋯ 仲間の勇気を感じ取り、そこに加勢して一緒に戦う。

美意識・拘り ⋯ 美意識や拘りは、選手それぞれに違う。でもその違いを理解し合えているのが本当のチーム。仲間が美意識や拘りに殉じようとしている時に、それを真っ先に助けてあげるのが、本当のチームワークでもある。

遊び心 ⋯ 遊び心を共有して、それを武器に変えてしまえれば最高。

と僕は思っているし、彼らにもそう伝えているつもり。
そのマインドが如実に表れたのが、冒頭に言及したこの準決勝だった。

決して臆せず、妥協することなく、勇気を持ってボールを持とうとし続けた。細かく短く繋ぎながら、チャンスを伺い、つくり、決定機も何度かつくった。選手に聞けば前半はやっぱり少しひよっていたらしいが、こちらにはそうは見えなかったくらいに、彼らの勇気、美意識、拘り、遊び心は充分に伝わってきたし、後半はそれがさらに加速したように見えた。

攻め込まれ、自陣でボールを奪い返しても、相手はゴリゴリの走力にモノをいわせて猛然と襲いかかってくる。でもうちのセンターバック、サイドバック、ボランチの選手達がそんな相手に真っ向から挑もうとし、キーパーも含めた他の選手達もそこに加勢して、勇気と遊び心を捨てずに、細かく切り裂いて脱出しようとしてる。

それぞれのマインドが、織り合わさった瞬間。
そんな彼らの姿に熱くなって、僕も「こういうときに巧くなる。絶対に逃げるな!」と、ベンチから思わず。

そう、間違いなくこのゲームだけで巧くなった。なんか久しぶりに味わったな、こういう感覚。

でも
その彼らが捨てずに戦おうとした「ボールを持つ、繋ぐ」ところにミスも出て、当然それは強豪には付け込まれ、そこから失点し、試合には負けてしまった。

言い表すとするならば、拘りすぎて負けた。「ナイーブだね」と言われても仕方のない、負け方だった。

もちろんそこに僕は誇りを持ったし、気持ちの良い負け様でもあったと思うのだけれど、、単純に負けは悔しい。
だから、やっぱりどこか悶々としながら帰宅して、夜もずっと、この日の試合のことを振り返っていた。
大人として、違うやり方をさせるべきだったのか?と。

そんな日の夜、TBSで放送されていた『プレバト』を観る。いつも観ている番組で、特に俳句のコーナーが大好き。

俳句は奥が深い。この俳句コーナーでいつも解説と採点をする夏井いつき先生いわく、こちらの言いたいことは直接言葉には出さず、句の中に入れずに、読む人にその情景を思い浮かべてもらえるような句が良い句なのだという。

僕はそれを聞いた時に目から鱗が落ちた。なんて素敵な世界なんだって。
そしてそれは指導も同じ、文章も同じだよなと。
それ以来このコーナーは欠かさず観てるし、俳句も好きになって、noteでは短歌にも挑戦してみたり⋯

すみません、前置きがめっちゃ長くなりましたが、ここからが今日の本題です。

この日のプレバト俳句コーナーの後半、キスマイの横尾渉くんが詠んだ句。

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遠雷の 夜汽車 カカオの奴隷史

夜汽車に乗っていた時に読んだ本が、昔の奴隷史の話だったらしい。カレーに隠し味として入れるカカオ。そのカカオを奴隷としてつくらされていた人達に、想いを馳せる句だった。

この句に対し、永世名人でもあり、ご意見番みたいな立場の梅沢富美男さんが「1音少ない、16音のままなのがどーなんだ!?」と煽る。

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なるほど、確かに1音(1文字)足りない。いわゆる【字足らず】というやつだ。

それに対する夏井先生の解説が、最高だった。

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「1文字足して5-7-5の17音にするのは簡単。でも、それをすると全体のバランスが崩れてしまう」と。

確かに⋯つまり、横尾くんが伝えたかった本当の「情景」が、1音足すだけで伝わらなくなってしまうということだろう。

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1音足さない勇気。字足らずのままでいい。

今年はアメリカの黒人射殺事件を発端に起きたBLM運動もあった。香港での民主化運動、それに対する弾圧も。
そんな今年に、若い彼がこの句を詠む。このこと自体にも、きっと大きな意味がある。

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その想いを感じ取り「若いあなたが詠んでいる意味を、心の中に深く受け止めた」と言える、夏井先生の心意気。

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さらに
「直しは要りますか?」という問いに「これこそ、直すとダメ」と言い切る夏井先生。

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最高だ。本当に感動した。

それと同時に、この日の朝に行われたあの試合を、僕はもう一度思い出していた。

決められたことや、誰にでも伝わる普通のものにしてしまうのは誰にでもできる。でも、あえて字足らずのまま、何か足りないままに、でもそれを捨てずに大切にして、自分が本当に伝えたいものを本気で伝えたい、と想うこと。

それを、表現すること。

それは若さゆえの脆さや拙さなのかもしれないけれど、でも⋯その脆さや拙さこそが個性でもあり、美意識や拘りにもなる。儚さでもある。

夏井先生の美しい解説に、朝の彼らの姿が折り重なって見えた。字足らずのままで強豪に挑んだ彼らを、改めて、僕は誇らしく思えた。

何かが足りない【字足らず】や、何かをし過ぎてしまう【字余り】は、若さゆえの特権だ。
大人はつい、それを端正や矯正(強制も)しようとしてしまう。

でも、小学生から高校生まで携わる自分は、決して忘れちゃいけないのだと思う。
字足らずを、端正しようとしないこと。彼らの持つ魅力やマインドを、字足らずのままでいいんだよと、共感してあげること。

高校生の爽快な戦いと、奥が深い俳句の世界、そして懐の大きい夏井先生に、大切なことを教わった、ある夏の日の話でした。

夏井先生のようなコーチに、僕はなりたい。

追記)
横尾くんの句を「字足らずじゃないか!」と煽った梅沢富美男さんも、俳句の名人。ここからは想像だけど、あの句の意味も、横尾くんが詠んだ意味も、字足らずのままでいいんだということも全て分かった上で、番組を盛り上げるためにああいう風に煽って見せたんだろうなぁと。だからこその、名人なんですよね。


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