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少しだけ、心をズラしてみる勇気

毎朝の通勤が苦痛だ。
24年間も同じことを続けているが、慣れたという感覚はいまだない。

私は川崎駅から東京駅までの区間を東海道線を使っているのだが、ポジション取りを間違えるとその17分間が地獄と化す。

満員電車という、異常なほどの密度の空間で自分の場所(セルフスペース)を確保する方法の一つは、力を使って他者を押し返す、あるいは強引にスペースをこじ開けることだ。

余裕がない時やイライラしている時、私はたいていこの方法を使う。いや使ってしまう。私は男性で体も大きいので、このやり方が手っ取り早いからだ。

しかし小柄な女性などは、当たり前のことではあるがこの方法は使えないだろう。小柄な女性が背の高い男性の中で埋もれて苦しそうにしているのをよく見かけるからだ。もし彼女たちの目線に立つならば、黒っぽい服に身を包んだ巨人が壁のようにそびえ立つ中で身動きとれず、耐えがたいストレスを感じているに違いない。

私の身長は174センチだが、そんな私でも時には185センチ以上の大きな男性に囲まれることがある。視界に入るのは彼らの肩や背中ばかりで、非常に窮屈だし圧を感じる。(小柄な女性たちは、毎日これ以上のストレスを感じているのだろう)


満員電車でセルフスペースを確保するもう一つの方法は、自分の体を少しだけズラして他者との間にスペースを見つけることだ。

満員電車の密度にもよるのでうまくいく時とそうでない時があるが、うまくいった時は「こんなところに自分のスペースがあったのか」と、安堵感と同時にちょっとした感動さえ覚えることがある。

そして私はこう思うのだ。

窮屈な満員電車の中で自分の体をズラすように、自分の心を少しだけズラすことで、この窮屈な人生から解放されやしないだろうかと。



アドラー心理学にはライフスタイルという考え方があり、これは簡単にいってしまうと人間の性格を形作っている、その元のようなものだ。

ライフスタイルは以下のように言語化できる。

私は○○であり、世界は○○である。それゆえに私は○○であるべきだ。(あるいは○○でなければならない)

例えばある人のライフスタイルをこんなふうに表現できる。

私は弱い存在であり、世界は危険にみちあふれている。それゆえに、私は慎重でなければならない。

性格の元となるライフスタイルは、言ってしまえばその人が作り出した信念のようなものである。

それは実にシンプルな言葉で表現できるが、とても強力な力として人の心に作用している。(とアドラー心理学では考える)

つまりライフスタイルとは(その人にとって)守るべき絶対的な法律であるとともに、その人の心を縛る拘束服なのだ。


アドラーは次のように言っている。

ライフスタイルの原型は、自分の関心にしたがって独自の方法で突き進む動物のようだ。

なぜ心は病むのか


アドラー心理学の理論にしたがうならば、人間は誰しもが「自分はこうあるべきだ」「こうでなければならない」という信念のおもむくままに生きている。それはまるで、真っ直ぐ突き進むことしか知らない動物のようだと。

アドラーは次のようにも言っている。

真っ直ぐ突き進めば頭をぶつけるのに、なぜその人はかがまないのだろうと。

何度も何度も頭をぶつけながらも、その方法を突き通そうとする。それがライフスタイルなのだ。



心を少しだけズラしてみるとは、他のやり方(方法)を試してみることに他ならない。

その方法を用いることで、自分が敗北感を感じること(そのリスクがじゅうぶんにあること)を織り込み済みで。


例えば、私は弱い存在で、世界は危険に満ちあふれている(そう思い込んでいたとしても)だ。慎重に行動するのではなく、時には大胆な行動を取ってみたら(結果は)どうなるのだろう?と。

「こうあるべき」・「こうあらねば」ではなく、「こうあるべきだけど、例えばこうでなかったら、どうなるんだろう?」という、人生の実験をしてみること。

それが心をズラすということであり、ライフスタイルという心の拘束服から片袖だけを抜いてみるということなのかもしれない。


うまくいかないことも当然あるだろう。

しかしうまくいかなければまた元に戻せばいいし、他の方法を試してみることだってできるのだ。

そういう実験をしてみることで、窮屈な人生から解放されることもあるかもしれない。

結局のところ勇気とは、ちょっとしたリスクを取れるか取れないか、つまるところはそれだけのことなのだと私は思っている。

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