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「弱さ」にこそ社会の伸びしろがある

正直に言って、自分を強いと思ったことは一度もありません。

大学生の頃にあさくハマったレイモンド・チャンドラーの探偵小説。その主人公であるフィリップ・マーロウの有名なセリフは

男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない

というものでした。その時はカッコいいなぁと思い、「そんな男に私はなりたい」と思ったこともありましたが、

40も半ばを過ぎた今、「強さ」とか「強味(strength)」ばかりを要求する社会ってのもどうなんだろうなあ?と思い始めていました。


そんな矢先、『新R25』のこんな記事を見つけたのです。

『マイノリティ・デザイン』(ライツ社)の著者でもある澤田 智洋 (さわだ ともひろ)さんは、この記事の中で「弱さ」が持つ力や価値にもっと気付くべきだと言っています。障害者から生まれた発明品がたくさんがあることを考えれば、それは明らかであると。

たとえばライターは「戦争で片手を失った人でも火をつけられるように」発明されたという説がありますし、先端が曲がるストローは「寝たきりの人でも飲み物を飲めるように」開発されたらしいです。
他にも、クリミア戦争で負傷した兵士が着脱が楽ににできるよう、カーディガン伯爵が発明した「カーディガン」とか。


社会とは人間の「弱さ」を補償するための仕組みであることを、我々はいつの間にか忘れていたのかもしれませんね。

そう、「経済成長」とか「マーケティング」といった資本主義が作り出した幻想は、もはや過去のものです。現代は(先進国に限っていえば)十分に豊かであり、誰もが生活に困るようなことはない。そりゃあみんなが贅沢できるかと言われればそうではないし、格差だってどんどん広がっています。

でもね、でもですよ。私は一杯500円もしない「吉野家の牛丼(並盛)」で空腹を満たす時にこの上ない幸せを感じるし、電車の中で読む一冊数百円のミステリー小説に没頭して楽しい時間を過ごすことができる。

暑い真夏に外出から帰宅し、クーラーでキンキンに冷えた部屋ですずむ時には快感すら感じるし、あるいは真冬に、コタツに足を突っ込んでぬくぬくしながら、みかんなどを口にほおりこんでいる時などにも、ある種の幸せを感じることができます。

そう、我々の生活に対する満足度は、100年前のそれとは比べものにならないくらい良くなっているのですよ、実は。

それにも関わらず経済界は、もっといい暮らしを!もっといい生活を!と「高度経済成長期」のような幻想を我々に押し付けてきます。本当は、この物質的欲求を十分に満たされた「成熟社会」を満喫するべき時なのに、それをさせまいとする経済合理主義。

これはいかんですよね。もう十分ですと、一人ひとりがはっきり声を上げてかないと。

「もっと」「もっと」の催眠術にかかってはいけません。「成長」「成長」のマインドコントロールに身をゆだねてはいけないのです。

考えてみれば分かることですが、人間が100歳近くまで生きられる豊かな社会なのですよ、今は。(特に今の日本は)

ということで、もっと良くなる必要もなけば、もっと強くなる必要もない。ビジネスという領域に関していえば、もうそこには需要はないんです。

今注目すべきはそう、「弱さ」なのです。

(すでに強い)マジョリティにとって満足度の高い社会だとしても、マイノリティにとってはまだそうではない。マイノリティが持つ「弱さ」を改善することには意味があるし、まだそこには需要があるということです。

これは言うなれば、「原点回帰」の考え方です。繰り返すようですが、社会とは人間の弱さを補償するためのシステムなのですからね。

「弱さ」にこそ社会の伸びしろがある。

というわけで、私はこの本を買いましたとさ。






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