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手巻き寿司の中にみる、「限定された自由」と「自己決定性」

手巻き寿司が好きです。

普通にお店で食べる握り寿司も好きですが、自宅で、多種多様なネタと酢飯を用意して、自ら海苔を巻いて食べるあの手巻き寿司が。

私は年に何回か、自宅で(あるいは実家で)手巻き寿司をやる時、まるで子どものようにワクワクします。

それはたぶん、どのネタを選び、またどのネタと組み合わせるか、あるいはどの薬味をのせて食べるかという選択の魅力が、そこにはあるからなのかなと思ってます。

海苔と紫蘇の葉の上に酢飯をのせて、マグロを選んだ後は、組み合わせとしてイカにいくかタコにいくか(はたまた両方のせてしまうのもアリですが)、あるいは納豆をのっけて「マグロ納豆」にしてしまうという手もあります。

あるいは梅干しとカイワレを入れてサッパリ(シンプルに)食べるのももちろんありで、手巻き寿司にはその組み合わせによって、数々のレパートリーを生み出せるという面白さがあります。

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そんな手巻き寿司を5つ6つと作りながら食べてくいくと、お腹がふくれてくると同時に、想像力が枯渇してきます。

そして最初のレシピ(例えばエビとイカの上にイクラをのせたもの)をまた作ったりして、それを口に入れると、「うーん、やっぱりこれは旨いな」なんて思いながら、「そうだ!次はホタテの上にイクラをのせてみよう」なんて、また新しいレシピを思いついたりします。



私はそんな時、手巻き寿司はどことなく人生と似ているなと思うのです。

最近は「親ガチャ」などと言われることもありますが、つまり私たちはその多くを、遺伝や環境の影響を受けて生きています。

それが手巻き寿司で言う、海苔や酢飯や、ネタや薬味に当たるものです。



しかしどう生きるかは(どんな手巻き寿司を作るかは)私たち自身にゆだねられている。



もちろんネタや薬味の種類は限られていますから、その想像力や自由決定の範囲は、きわめて限定的なものです。

でも人生はもしかしたら、それくらいの範囲で繰り返される「限定的な自由」の中にあるのかもしれない、とも思うのですよ。


つまり、今目の前に与えられているものをどう使うのか?



マグロとイカとサーモンとイクラしか使えるネタがないんだとしたら、そのネタをどう組み合わせて、どんな薬味で味付けをするのかで、手巻き寿司の美味しさは変わってきます。

そして人生も、これと同じようなものなのではなかろうかと。


つまり遺伝(ネタ)や環境(薬味)の影響を確実に受けながらも、それを組み合わせてどう味付けするかは私たちしだいなのです。

そう、ネタや薬味が影響因として働いていることは事実だが、それは決定因ではないんです。

どんな手巻き寿司(人生)を作るのかは、最終的には私たち自身が決めているのですよね。


アドラー心理学ではこのような考え方を、『自己決定性』と呼んだりします。



そのような選択を繰り返し、私は(気づけば)普通の握り寿司を食べる以上の量のお寿司を、お腹の中に収めていることに気づきます。

く、くるしいと思いながら、私はやめ時を考えます。


そう、手巻き寿司はやめ時が難しいのです。なぜなら手巻き寿司をやる時はたいてい多めに具材を用意するので、目の前のネタはなくなっておらず、酢飯や海苔や薬味もまだ残っているからです。


やめ時が難しいというのもまた、人生に似ていると思いませんか?




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