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【第4回】居場所とは、自分を必要としてくれる人が居る場所ではなく…もっと強い心で自ら感じるものなのかもしれない

コロナ自粛によるストレスと疲労がたまり始めたゴールデンウィークの最終日。この映画『万引き家族』を(遅ればせながらも)観れたことは、たぶんラッキーだったのだと思う。

しかも「自分史上」初の連続鑑賞。AmazonプライムによるiPadでの鑑賞とはいえ、一日で2回も同じ映画を観たのは(いや観たくなったのは)初めてのことだ。それくらいに、心を揺さぶられたということだろう。


この映画はよく、「家族とは何か?」を問う映画だといわれている。しかし僕の感想は、家族というよりも「居場所とは何か」、そして「人どうしのつながり」について世に問おうとした作品だったのではないか?と思った。(あくまでも私見ですが)


この映画に出てくる家族はいわゆる「万引き」だけを生業にしているわけではない。ちゃんとした仕事にも就いているのだ。しかしそれだけでは食えないから、万引きを生計の足しにしているのである。

それからもう一つ、(これも私見だが)この映画で扱われる「万引き」はただ単に「モノを盗む」という意味合いだけではなく、「子どもを誘拐してきて家族にしてしまう」という意味での「万引き」。つまり少し隠喩(メタファー)的な使われ方もしていたのではなかろうかと思う。それは文字通りの「誘拐」ではなく、お互いが選んだ結果としての「誘拐という事象」なのである。とだけ、ここでは述べておく。


そう、この家族は(まだこの映画を観ていない)あなたの推測通り、お互いが血のつながりを持たない「疑似家族」の物語なのだ。そもそも、家族とは何なのか?

それはきっと、血縁があることを前提としたお父さんやお母さん、お兄ちゃんや妹、そしておじいちゃんやおばあちゃんといったその役割と関係性を総称して、「家族」と呼ぶのであろう。少なくとも私はそう思っている。家族には血縁が必要条件なのだ。

 そして血縁のないおじさんやおばさんを「お父さん」や「お母さん」と呼ぶのは、子どもにとって「はばかられる」ことだったに違いない。この映画に出てくる二人の子どもたちのように。疑似家族のお父さん役である柴田治(演じるのはリリー・フランキー)は、子ども役である祥太(この子も連れてきた子である)に何度も言うのだ。「お父さん」と呼んでくれと。しかし祥太は「いつかね」と言って、その言葉をにごす。


そんな疑似家族でありながらも、この6人が(俗っぽい言い方をするならば)深い絆で結ばれていたことは誰の目から見ても明らかなのだ。なぜか?


それはこの家族の、お互いがお互いを求め合い、足りないもの(それまで足りなかったもの)を相互に補償し合っていたからである。あえて私は、この家族には本当の「愛」があったとここで言うつもりはないし、ましてやこれが本当の「家族」のあり方であると真剣に語るつもりもない。


そういうことではないのだ。


祥太が、新しく家族になった「りん」と父親役の治と3人で万引きを働いて成功させた時にこんなふうなことを言う。「二人でも十分できた。こいつ(りん)はじゃまだ」と。「男同士でやったほうが面白い」と。「そんな言い方をするな!」と、治にとがめられた祥太はどこかに行ってしまい、その日は夜中になっても帰ってこなかった。りんはなかなか帰ってこない祥太を心配し、玄関で座りこんだまま寝ようとしない。治は祥太を探しに行く。駐車場の廃車の中で祥太を見つけた治は、「りんのことが嫌いか?」と聞く。祥太は首を横にふる。そんな祥太に治がこんなふうに言うのだ。

何か役割を与えてやらないと、りんも居ずらいだろう」。

 

そう、この映画は家族以上に「居場所」がテーマだったのだ。「そこに居る」ためには、何かの役に立つことであったり、互いの「貢献」や「協力」が必要だったのである。それらの手段として使われたのが、「万引き」という非建設的な行動であり、しかしそれはあくまでも手段にすぎず、目的は「そこに居る」ため「居やすくなる」ためだったのだ。


本当は、何もせず(万引きなどせず)とも、そこに「居る」だけでもよかったのだ。なぜなら、この6人はお互いがお互いの足りないものを埋め合わせられる関係だったし、お互いを求め合っていたのだから。それだけでも十分に幸せだったはずなのだ。

しかしそうではいられなかったのは、彼らが本当の家族ではなかったからだ。血縁のない、疑似家族だったからなのである。万引きという行為が、そこに居るための「絆」として作用していたのだ。


この映画は決してハッピーエンドではない。しかし、必ずしも悲劇というわけでもない。そこには自立と、責任をともなう強さと、変わりようのない愚かさと愛しさ、そして厳しい現実と未来への祈りがある。

居場所とは、「自分を必要としてくれる人が居る」場所であると、そう締めくくれば感傷に浸れるし、とても綺麗なまとめにはなる。しかし、それは私にとってはどこか違うのだ。

居場所とは、自立的で自律的な勇気を必要とする、もっと主観的な「居場所感」なのである。そう考えないと人は(この厳しい現実では)生きてはいけないのだ。緊急事態宣言が延期され、最後にはバラバラになってしまう万引き家族の幸せそうな笑顔を思い出しながら、この連休明け、改めてそう思うのである。

withコロナの日々を、気持ちだけは強くもって生きていこうと。

#Withコロナの日々

#映画鑑賞

#万引き家族

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