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妊婦日誌の前に〜子どもを持つということに関して思っていること。

私はいま37歳です。丸顔童顔系の母方の血を引き継いでいるので、自慢するわけでは本当にないのですが歳に比べてずいぶん若く、というより幼く見られることが多いです。

そして、精神的にも、自分で自分のことをあまり歳をとってるという風に思っていないところがあるというか、どこか年齢というものを超えた感覚、というとなんだか偉そうですが、ほんとうにあまり自分の年齢のことを悲観するようなことはありません。その感覚も、年齢不詳に見られることに影響はしているかもしれません。

さて、これは前置きで。

妊娠、ということに連携して想像されるのがどうもこの年齢、というものらしいです。いままでいろんな方から妊娠のことについて どうなの? というように聞かれることがありました。そこに必ずといっていいほどついてくるのが年齢のこと。

女性にとっての妊娠適齢期というのがどうもあるということで、「急いだほうがいい」というような声もよくいただきました。

でも、そのようなことを言われましても、当の本人からすると、前述したようにあまり年齢のことを普段考えていないものですから、わりとハテナマークがつくことが多かったり、言われ方によっては無駄に悲しい気持ちになってしまうことも度々ありました。

このことについてはずっと文章にしたかったのですが、非常にナイーブな問題でもありますので、避けてきたところがあると思います。

でも、そろそろ自分の子どもを持つかどうかということに関する考えを書いてみたいな、そう思ったところ、この度妊娠が発覚するという不思議な流れとなりました。なんの因果でしょう。


私は、私のこの人生において、子どもというものを授かっても授からなくても、それがどちらでも、私がきっと生まれる前に考えて決めたことであるのだから、どちらでもよい。どちらでも尊い。そう思ってきました。もし妊娠する運命なら、年齢は関係なくその日はくる、と。しないのなら、そのように選んできた、ただそれだけのこと、と。

子どものことを聞かれるときに、時々なんだか悲しい気持ちになったり、モヤモヤすることがありましたが、そのときになぜこのような感情になるのか?とよく考えたことがあります。

それで気づいたのは、聞いてこられる方を通して、世間というものの「女性なら子どもを持ちたいと思って当たり前」「女性なら子どもを産んで当たり前」「女性で子どもを持ちたいと思わないことなんてあるとしたらおかしい」「結婚して何年も子どもがいないなんて夫婦生活はどうなっているのか」というような、固定観念というのでしょうか、もしかしたらどこか差別的な意識もあるような、そういったものを感じとってしまうからだ、ということでした。

もちろん、聞かれる方はそんなつもりはないと思うのですが、その方々を通して私が勝手にですが社会の目を見るような感じがしてなんとも言えない気持ちに度々なりました。

ホオポノポノで言えば、人類の溜め込んだ女性に対する分厚い差別的記憶を見ているといえるなぁと思い、その分厚い澱のような記憶を見る自分を、度々クリーニングしてきました。


独身のひとで、ある一定の年齢を超えると男女問わず 結婚は? と聞かれるひとがきっと多いように、結婚したらしたで今度は 子どもは?と聞かれるのは一般的なことのようです。さらには1人目を生むと今度は 2人目は? と聞かれることがよくあるようで...。こういうのって一体なんなのだろうか、と思います。

昔から自分は、子どものいない方に向かって、子どもは?と聞くのは、あまりよくないことなのではないか、となぜか思っていました。なんでだろう。分からないけれど、それぞれの理由があられるでしょうから、その質問によってもしかしたら相手の触れられたくない傷に触れてしまって傷つけてしまうこともあるのではないかな?と感覚的に思っていたからです。

私のように子どもをそれほど望んでない立場でも感じた気持ちがありましたが、ましてや本当に望んでいる方でなんらかの事情があられる場合には、その質問はどれぐらいその人に刺さってしまうかな...。それが怖いと私は思ってしまいます。だから、もしそのひとの子どもに対する考えが気になったとしても、相手から自然に話してくれるのを私は待ちたいです。


私の場合ですが、子どもに関して気持ちが向かずにずっといたのは、「自分のことをたくさんやりたかったから」でした。

子どもを持てば責任が生じます。ある程度その子が大きくなるまでは、自分より子どものことを優先することが多くなることでしょう。

私は歌うことがなにより好きで、そのことに自分の意識を使いたかった。子どもでなく、自分の人生に意識を使いたかった。大人になって趣味でバレエのレッスンを再開しましたが、それも楽しくて一生懸命それに取り組みたかった。映画や演劇や好きな人の講演会などに自由に行きたかった。私たち夫婦、それぞれ個人のトラウマがある程度癒され、2人の関係性をさらに深める必要があった。そういったことが、子どもを持つ、というところに私が意識がいかなかった理由になります。

子どもより前に自分自身に取り組む課題が色々あったので、子どもはまだいいと考えてきたのですが、そう考えることが、どこかめずらしいように思われることや実際そう面と向かって言われることもありました。でも、そうかなぁ.....。結構そういう人もいると思いますし、子どもが苦手な人もいるでしょうし、養子縁組など血縁でなく授かる方もいらっしゃいます。ほんとに様々ですよね。


子どもを持つ体験、妊娠する体験はもちろん素晴らしいこと、奇跡的なことだと思います。でも....それは結局、人生の一部でしょう。

人類が輪廻転生しているのなら、そのうちの経験のひとつであって、それだけがものすごい体験、ということでは決してないと思うのです。

いろんなひとがいるから、この世の中が回っているのだと思うから。

自分の子ども、ということに執着するような感じもどこか違和感を感じるところがあります。うまく言えないのだけれど。

いま私の腹の中にいる子は、紛れもなく私たち夫婦のとても近い仲間であります。でも...自分の子だけど、地球の子ども、なんだと思います。

変な話、いまべつに私が意識して腹の子になにかできているかというとできてるわけじゃないんですね。私のお腹を使われていますが、その先の制作に関しては、宇宙の神秘が勝手にやってくれていることです。つまり、私の身体のなかで起こってはいることだけど、「私の」意識でやっているわけじゃない。私のお腹のなかでいま人間を作っているのは、私の身体だけど私じゃないんです。

だからこそ、子どもを持つも持たないも、誰にとっても、本当にどちらでもよくて、それは宇宙、自然の流れのなかで起こることなのだと改めて思うところがあります。

自然の流れのなかで起こる出来事のひとつひとつをこれからも変わらず静かに味わっていきたいと思っています。




みなさま、いつも様々なサポートをありがとうございます。 私はこれからも歌に絵にことばに、いろんな表現活動をしてまいります。応援よろしくお願いいたします。