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障害者が子どもを持つことについて

これ論じると、何言っても、すごいバッシングがきそうで今まで控えていたのですが、僕なりの考えを書きます。

まず、僕は、子どもを持つことを望む人すべてが子どもを持てる社会が理想的だな、と思っています。

つまりは「賛成」なのですが、ここに至るまで、自問自答の日々でした。

子どもを産み、育てるというのは大変なことです。
障害がなくても、心や体を壊すこともあるくらい過酷なことです。
そして、人間を育てるということには大きな責任が伴います。

それらを加味した上で、介護が必要で、知的にハンディがある人たちが子どもを持っていいのか、と考えたこともありました。

でも、長くリハビリテーション従事者として仕事をし、自分が「障害者」となり(今は手帳は放棄しました)、子育てをするようになってから、少しずつ考えが変わってきました。

今は、上記のような考えに至っています。

話が細かくなりすぎることを避けるため、今回は、なんの障害かに絞らず、「障害者」という言葉にあらゆる障害を含めてお話しします。

1.子どもを望むすべての人が子どもを持っていい、と思うようになった理由

・障害者は生まれない方がいい?そんなことない!

障害者が子どもを持つことに反対する人たち(以下、反対論者)は、反対する理由として、

⚫︎子どもに障害が遺伝する可能性がありながら出産するというのは親のエゴ
⚫︎ただでさえ少子化が叫ばれる中で生産性のない障害者を増やしては社会が成り立たなくなる

といったことを声高に主張します。
ここで僕が疑問なのは「障害ってただただ悪いものなのか?」ということなんです。
障害とは、個人の特性だけを指していうのではなく、社会や環境との間の壁のことをいうんですよ。
だから、障害を障害たらしめているのは、世間の偏見やバリアであったりするんです。
「障害者」という言葉のせいで、あたかもその個人にすべての原因があるように思われるのは、当事者である僕自身も心外です。

そして、障害者といわれる人たちの中にも、いろいろな才能を持った方がおられます。
それは、今の世の中では「障害」と呼ばれるものであるかもしれませんが、大きなパラダイムシフトが起こって世の中が変われば、人類を救うスキルになるかもしれません。

ご興味があれば、重度の障害を持ちながらもご活躍されている方々について検索して頂ければ、たくさんの事例が出てくるはずです。

そして、動植物の世界でもそうですが、多様性がある種が生き延びるというのは、その方が環境の変化に適応しやすいからなんです。
現代は、世界中どこでも、ある程度は似通った生活スタイルになりつつあります。
スマホは当たり前だし、ほぼ全ての人種が車やバイクの運転ができます。
そういった画一化が進む人類の生活において、そこから弾かれる人たちが増えてくると、世界は彼らに「障害者」というレッテルを貼るわけです。

発達障害者が増えてきているといわれていますが、彼らでさえ、一昔前なら、農林漁業などの第一次産業で立派に活躍していたかもしれません。

こういった観点から、僕は障害者を排除して、定型発達者だけで社会を構成しようとする流れに強い危機感を抱いています。

今は、病気や障害というデメリットをもたらす遺伝子でも、地球の気温が激変したら、未知の感染症が流行したら、人類が本格的に宇宙に進出するようになったら…いろんな可能性を秘めた遺伝子になり得るかもしれません。

長い目でみて、障害者を含めたいろんな遺伝子を人類の中にプールしておくことは大切なのではないでしょうか?

・どんな子育てのスタイルがあったっていい

次に、反対論者たちがよくいうのが「自分自身が人の世話にならないと生きていけないのに子どもの世話なんてできるはずがない」という主張です。

僕はこれにも異論を唱えます。
まず、大人であっても、人の世話にならずに生きている人間なんてそういないはずです。
現に、介護が必要なくらいの障害を持ちながら子どもを育てている親はたくさんいます。

「でも少なくとも自分の身辺処理くらいはできないと…」という声が聞こえてきそうですが、ここで思考実験をします。

もし、その親が有り余る財力を持っていて、ベビーシッターやお手伝いさんをフル活用しながら、自分は一切手を出さずに子育てしていたら?

文句をいう人はいないのではないでしょうか。
反対論者たちが怒るのは、それに税金からなる国費を使われるからだと思います。
もしくは、自分たちが国から受ける恩恵が少ないのに、子育て障害者が優遇される可能性に対して怒っているのしょう。
つまり、自分のものが侵される不安が怒りにつながっているのでしょう。

ここは、僕にも別の考えがあります。
確かに、今の国の子育て政策はまだまだ改善の余地があると思います。
責任が親に集中している観もあります。
ですが、それに対する不満を「我々が子育てに苦労しているのに障害者が…」と八つ当たりをするのはいけないと思います。

それは、明確に、障害者を下にみているからこそ出てくる発言です。
自明のことですが、障害の有無に関わらず、人が持つ権利は平等です。

だったら、国や自治体が、障害者を含めた子育て親全体の負担を、個人ではなく集団に分散したらいいと思うんです。
かつての日本もそうだったように、「地域で子育てを」をモットーに、困っている家庭があったら隣近所の人がそっと手を貸す風土をつくればいいと思うんです。

「あそこのお父さんお母さんは体が不自由だから、今夜はうちでAちゃんをみてあげましょう」

そんな会話が普通に出てくる社会ってすごく素敵だと思いませんか?
僕は思います。

人の数だけいろんな子育てのスタイルがあってもいいじゃないでしょうか。
それに、子どもにとっては、直接育児をしてくれることよりも、自分がくじけそうなときに、心の支えになってくれる親の方がありがたいはずです。

たったひとつの親の言葉が生涯にわたって子の支えとなることもありますし、障害に負けずに生き抜こうとする親の姿を目の当たりにするだけでも子どもは自然に感謝の念を抱くでしょう。

そんな、いろんな生き方、いろんな子育ての仕方が受け入れられる社会は、ぜったい楽しいはずなんです。

2.考えていかないといけないこと

・子どもが成人するまで安心して生活できる環境が確保出来るか

いろいろ言いましたが、反対論者は、感情的に頭ごなしに否定しているわけではないんです。
彼らの中には、ネグレクトを受けた人、育児に関する悲惨なニュースに胸を痛めている人、たくさんいるんです。
「現実問題、障害者に子育てはむずかしいんじゃないか」って真面目に考えてる人も多いんです。

だからこそ、考えていかないといけない問題があります。

当たり前ですが、生まれてきた子どもが、障害の有無に関わらず、安心して成長していける環境が必須です。
当然、親が障害者だと、いろんな問題が生じてきます。

①差別されないか?
②日常生活の面倒は誰がみるのか?
③教育は誰がしていくのか?
④経済面の負担は誰がするのか?

残念ながら、今の日本社会には、これらの問題をしっかり解決していくだけの土壌はできあがってないと思います。
ですが、先ほど述べた通り、行政による親の負担の分散、「地域で子どもをみる」という風土の醸成、ができれば解決できないことはないと思っています。

・障害を持つ親、生まれてきた子ども、周りの人、みんなが負担なく過ごせるか

そして、もう一つ大事な視点は、生まれてきた子どもだけでなく、子を持つ障害者本人、関わる支援者、それを見守る社会、その中の誰にも負担のしわ寄せがいかないよう配慮していく必要があります。

直接的な利害関係者は、親子が笑顔で生活する様子をみて満足感ややりがいも感じられるでしょう。
しかし、顔も知らない他人にとっては、「障害者だからってみんなにチヤホヤされて…」と批判的な感情を持ってしまうことだってあり得ます。
現状、反対論者の多くが、直接本人たちとの関わりがないことをみても、それは十分考えられます。

ですが、これにも解決策は考えられます。
例えば、欧米では寄付は文化ですが、日本ではあまり根づいていません。
これに対しては、NFTなどの新技術を用いて、見ず知らずの人同士が助け合う文化をつくることで解決可能なんじゃないでしょうか。

・「障害者は子どもを持つべきでない」という考えがあってもいい?

最後に、これはすべての問題についていえることですが、他者の権利を制限したり、侵害する意図がなければ、どんな考えを持つことも許される社会であってほしいと願っています。

「障害者は子どもを持つべきでない」と思う人がいるならば、その考えを無理に変えさせたりすることはよくないと思っています。

双方が、それぞれの考えを持ちながらも、豊かに共存していくことは可能と考えます。

長くなりそうなので、この辺りで終わります。
いろんなご意見があるかと思いますが、どうか誹謗中傷や、考え方を改めることを求めるようなことはおやめ下さい。

最後になりますが、これはあくまでも僕の考えです。
いろんな考えが受け入れられる社会であることを切に望みます。

イルハン

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