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小山田圭吾氏のいじめ炎上について想うこと

本稿は、facebookに2021年7月17日に投稿したものを再編のうえ転載しました。

全然関係ないけど、コーネリアス小山田圭吾氏とはくしくも誕生日が同じ。生年は違う。

■1994年から現在まで:《件の記事》の備忘録

五輪に全く興味がなかった(東京五輪に限らず、毎回のこと)ので、コーネリアスの小山田圭吾氏の W高在籍時代の障害者生徒いじめ問題が炎上してることをごく数日前に知った

1990年代半ば、当時ロッキンオンジャパン(※修正追記クイック・ジャパンでした)だったと思うんだけど、私は件のいじめ自慢記事が掲載されていたのをリアルタイムで読んでいる。

話題となっている過激で醜悪ないじめの内容以上に、確か記事の最後らへんに出ていた、ボランティアをしたいと言ってた障害をもった同級生に「お前はボランティアされる側だろ」と言及していた部分が、私にとって本当に気持ち悪くて、この部分は特にはっきり覚えている。

以降コーネリアスの音楽がどれほど素晴らしくても、むしろ素晴らしいと感じるたびに、言葉にならない胸が締め付けられるような、モヤモヤに襲われる。
最近だと、数年前のデザインあ展のときだったろうか。音楽的な心地よさと、記憶の中から蘇る醜悪なエピソードのもたらす不快感で捩じ切られるような感覚があった。

五輪に興味がないから、私は、さほど主張する気はないけど、小山田氏は開会式からは下りるべきじゃないかと思っている。

誰もが今まで人を傷つけてるはずだ、とか、いつまでも赦さないのか、といった擁護があるけど、物事には程度と限度があって、彼の行為は限度を振り切っている。
いじめの内容そのものもそうだけど、成人して有名アーティストになった時点で、それを有名雑誌で2度に渡り嘲笑のネタにした二次加害や、そして批判や非難の声に対して、それを25年以上放置しておいたことも含めて、だ。

記憶がうろ覚えだけど、当時の時点で、あるいは再燃するたび、掲載紙にも小山田氏にも、そして(障害を持つ生徒と共に学ぶことをウリにしている)W高にも批判と非難がそれなりにあったにもかかわらず、小山田氏が謝罪文で言っているように「自己保身」で沈黙してたはずである。

そういった状況でにそもそも赦すも赦さないもないのではないだろうか。
小山田氏が25年前きっちり謝罪をして、信頼を取り戻すため、贖罪のための活動をしていたとかならともかく、五輪直前で叩かれまくって謝罪文を出したから、それでよしとするというのは都合よすぎるというか、無理筋だろう。そもそもあの謝罪文の内容はあまりに身勝手で都合がよすぎる言い分の羅列でしかない。あれを読んで、真に反省したと受け取る人は少数で、多くの人には単なる火消しとしかとってもらえないのではないだろうか。

■小山田氏を間違えさせ続けたもの

何が言いたいかというと。
小山田氏も悪いが、今回の件で、彼を追い詰めたのは25年以上擁護し、沈黙し続けたファンでもあるということ。
小山田氏のいじめの話題は、それ以降、何年かに一度は定期的に話題に昇っていた。
そのたびに彼の音楽的才能や、音楽的功績を持ち出して擁護したり、あの時代(彼がW高に在籍していた1980年代からロッキンオン等にいじめ記事が掲載された1990年代半ば)はいじめはありふれていたとか、障害がある同級生をいじめるのはよくあることだからしょうがないなどという差別全開の価値観に基づいていじめを矮小化するものまであった。
ちゃんとみてないけど、おそらく2021年現在もこういう擁護は沸いているじゃないだろうか。知らんけど。

間違いなく言えるのは、当時、あるいは、今日にいたるまで、ファンや彼の周囲の人間が沈黙や擁護や矮小化をせず、きちんと彼に反省や謝罪を求めていれば、こんなことにはなってなかったはずである。

問題が起きた時に、きちんと問題としてとりあげ、謝罪と反省、そして贖罪、予防策を行うこと。これが被害者にも社会にも、なにより加害者本人にとって、誰もを尊重した良い方法なのに。

そして、実は、これ以上の「自己保身」は存在しないのだけれどね。

(note版追記)反省できるのはチャンス

反省できる機会は、本人にとって、成長や謝罪、贖罪など色んな意味でチャンスなのだ。おそらく、小山田氏は今回以前に炎上するたびに、本人の語る『罪悪感』がどの程度のものかは不明だが、そういった心理と『自己保身』つまり矮小化、自己正当化、自己防衛の心理で葛藤もあったのではないだろうか。
そのたびに、本当の意味で内省し、反省し謝罪を表明するチャンスはあったのだ。中途半端な擁護や沈黙で反省する機会を奪ったのは誰か、何か。

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