見出し画像

当事者意識が重ならない人々とわかり合うことは可能なのか

今日はNHKの「泣いて笑ってママになる」という番組を視聴して思ったことを少しだけ書こうと思う。番組全体の概要については、下記のリンクを見てほしい。

2人のお母さんが特集されており、1人は若いシンママさんでもう1人はお子さんの肺に何らかの異常があって生まれた直後からしばらくの間、お子さんと離れて過ごさなければならなくなってしまったお母さんだった(うろ覚えなので、違うかもしれませんが…)。助産師の寿子さんは産前産後と不安な気持ちを抱えるお母さんの気持ちに寄り添っていた。一緒に泣いて、笑ってくれる存在って本当に有難い。でも、そんな存在はなかなかいない。寄り添うって簡単なように見えて、実は難しい。その人の経験を自分の事のように感じ、その嬉しさや悲しさ、苦しさを分かち合う。嬉しい場合には嬉しさは2倍になるだろうし、悲しさや苦しさは1人で抱え込まなくても良くなるのだ。自分の代わりに泣いてくれる人がいたら、それだけでも何か救われたような気持ちになる。共に一喜一憂してくれる存在ってなかなか見つからない😂ここで、ふと疑問に思ったのは、寿子さん自体もやはりお母さんで11人の子どもを育てている。つまり、お母さんという当事者であるが故に共感がしやすい、ということが考えられる。やはり、当事者ではないと、その人の悩みにまさに我が事のように向き合うことは難しいのだろうか。

この番組では高校生に対する性教育の場面も取り上げられていた。若いシンママさんにゲストスピーカーとして来てもらっていた。それは、やはりこのシンママさんと高校生の年齢が近く、当事者性が近い(若い女性)ために歳を重ねたお母さんよりも高校生が身近なこと、我がこととして考えることができるからだろう。やはり、当事者意識が近いもの、当事者性が重なる人としか分かり合えないのだろうか。例えば、私は障害のある人や認知症の方の支援と考えた時にはできないと思ってしまう。それは、自分はこの人とは違うとどこかで線引きをしているからだ。分かり合えないとどこかで思ってしまう。一緒に泣いたり笑ったりなんてできそうもない。共感できない人、全く分かり合えないと思っている人への支援は難しい。そもそもできるのだろうか??いや、きっと専門家の中には当事者の人もいるが、そうではない人もたくさんいるからできるにはできるのだろう。でも、当事者である専門家とそうでない専門家の中にはやはりどこか壁があるように感じてしまう。当事者かつ支援者である人の間ではきっと支援者と被支援者の思いの中で揺れることがあるのだろうし、当事者ではない専門家の間では、「あなたにはどうせわからないでしょ」と被支援者から言われることで頭を悩ませることだってあるだろう。

何が言いたいのかよく分からなくなってきたが、つまり当事者意識が重ならない人々と分かり合うことは可能なのか、わかりあえないからこそ相模原のような事件が起こったのかもしれない。分かり合えるとするのならば、それはどうやったら可能となるのだろうか。

皆さんのご意見をお待ちしてます!

本当は書き始める前までは「自立」と「依存」の狭間で…とか性教育、良いパートナーとは何か等々…違うことを書こうとしていたのに笑

書いていくうちに全然違う話になっていった。笑

こういうことが起こるから、書くことって楽しいよね。明日の私は何を書いているんだろう((´∀`*))

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?