大変な我が子の異変に気づいてあげて #3
タイトルに書いてある通り、"我が子の異変に気づいてあげて"の続きで最後になります。
最後まで読んでいただくと幸いです。
股関節の骨が徐々にきれいな形に回復してきたので歩く練習が始まりました。 歩く練習といってもいきなり体重はかけられないので、ここでも足に体重をなるべくかけないようにしながら歩くことが出来る外転歩行装具(あしを開いた位置で保持しながら歩行する)を装着しました。
毎日歩く練習と少しずつ体重をかけれられるようなリハビリをしていました。 手すりを使いながら歩いてる時は普通に歩けることが嬉しくて終始ニヤけてしまいました😅 歩くことは当たり前のことんですが、その時の僕にとっては言葉では表せられないくらいの喜びだったのです!
その後も順調にリハビリが進んでいたので装具を外して、やっと自分の両足でしっかりと歩けるようにまでなりました! ここまでくるのに2年半はかかりました。 歩いていても違和感もなく骨にも以上がないので小学校2年生の一学期頃に退院できました。
家に帰ってきて数日後、地元の小学校に入学。 退院できたからといっても何から何でも好きにやって良いという訳ではありませんでした。 はじめは骨に負担をかけない為にも、走ったりボールを蹴るなど大きな動作をしてはいけなかったのと、重い荷物を持ってはダメでした。 ランドセルさえも最初は背負ってはいけなかったので、手提げバックでほぼ中身が無いに等しいくらいの物しか入っていなかった。 それでも外で自由に歩いて友達と遊んだり話したり出来ることはすごく嬉しかった。
同じクラスの友達も自分の事を理解し、友達から声をかけて来てくれて自分が出来ないことや分からない事は手伝ってくれました。 中にはサッカーをやっている子やご近所の友達が沢山いて会話が弾み、クラスメイトや学校にすぐ溶け込める事ができた。
毎月足の経過を見るためにレントゲンと診察をしに、入院していた横浜こども医療センターに行っていました。 退院してから1年半はかかりましたが、小学校4年生になったときに先生から「サッカーやっても大丈夫そうだね!」と言われた。 サッカーがまた出来ることに嬉しくて涙しました。
サッカーしても良いと言われる前からは、走ることも許されていたので体は動かしていましたが、ボールを触ることはしていなかったので身体を慣らすことに必死でした!
サッカーチームは、病気になる前に次男の試合にも出ていたチームで、兄2人も所属していた市内のクラブチームに入りました。 5年生のときは1つ上の学年の試合にも出たり 遠征が多いチームだったので、ほとんど行かせてもらいました。 6年生最後の遠征は1週間の中国遠征。 この時は6年間の集大成でもあり最後の遠征だったのでほとんど観光で試合は2試合ほどしかしませんでした。 僕は6年間もいなかったですが、母は長男の時から関わっていたので最後に僕との中国遠征に着いて来てくれました。
中学生になり市内のジュニアユースに入りました。中学生になると学校が終わってから練習がほとんどだったので、自転車で行ったり帰りが9時過ぎるので母も心配していました。 この頃は思春期でもあったので「なんでそんなに心配するの」ってすごく思っていました。笑 今思えば入院してる時からずっとそばにいたし、ここまで成長するなんて思っていなかったから僕の事を想って言ってくれてたんだと改めて気付かされました。
高校生になっても半年に一回は骨の経過を診てもらっていました。 高校はスポーツが盛んで市内の県立高校に入学しました。 母は時間があれば必ず試合も見に来てくれて、毎回差し入れも持ってきていたのでみんなの母親みたいな存在になっていました笑
高校を卒業して社会人になった僕、今では社会人5年目の立派な大人。 たくさん支えてくれて助けてくれた母に感謝の気持ちしかない。 今自分が働いているから思ったけど、母は僕が病気になって入院してる時どんなに仕事が遅くなっても僕に会いに来て笑顔見せてくれた。 次の日も仕事に向かってまた夜会いにきてくれる。仕事終わって疲れているのに僕の前では弱音を吐かなかった母が凄いと思う。 仕事が終わったらすぐにでも帰ってゆっくりしたいと思う僕は、本当に母親のありがたみを改めて感じた。 この感謝の想いは、社会人になった時から自分で稼いだお金で誕生日と母の日に毎年何かプレゼントして気持ちを伝えようと考えました。
'大切な我が子の異変に気づいてあげて' をタイトルで3つ投稿しました。 全て読んで頂いた方、ありがとうございました!!少しでも読んで頂いた方にも共感してもらえたら嬉しいと思います。 現在も骨には異常なく毎日仕事もプライベートも楽しんで生活してます笑
また次の投稿も目を通してもらえると嬉しいです。
ではまた、次の投稿で。
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