noteを書く気が起こらないので、創作作品を創った。

 今日はどうも気温の変化が激しいようで、メンタルがやられてしまいました。そこで発散がてら創作をしたので公開します。もし読んでくれて、『こいつはヤバイ思考だ』、『ここが捻くれてる』と思った方がいたら、コメント欄で色々意見をくださいね。

『神』第一部

 私は神に見捨てられし子供だ。溝の底で泣きじゃくる私は、それでも死を恐れている。

 人は神を創った。神は権力者によって創造され、時代と共に細分化した。人は喜んで金を投じ、その対価であるかのように信仰した。自らを罪人と見なし、救いを求めて食を断った。過去を振り返っては嘆き、身を清めようと労働した。
 過去と罪。人間は時空という次元を商売道具にして、その現象の不確定性に賭けていた。不確定性は神の元で確定性を持ち、全ての論理が受け入れられる世界では、人間は諦念していた。論理はまやかしでしかない。周期が繰り返すと信じられる世界では、株価のように上下を繰り返せば中央値を取り、それが『答え』だと騒ぎ立てる。不思議に満ちた現実は、無限の可能性の僅か1つを選んだ結果に過ぎず、定理とは蜘蛛の巣の糸を辿りやがて一周して歓喜するかの如く、不鮮明なものである。
 それほどまでに人間の思考とはちっぽけなものであり、人間の『成功』こそ神が定めたものであると信じてやまない。人間が滞在的に感じうる失敗、人間さえも感じ取れない失敗、限りなく続く失敗を神は忘れさせた。だから私たちは幸せになれる。その周期性が崩壊して世界が一瞬で焼き尽くされようとも、私たちはその瞬間まで手を握り笑い合うことができるのだ。
 
 私は神に見捨てられし子供だ。根本たる人間の宿命としての信仰を拭い去ることができないでいるのに、神を失った私は不幸であった。そこで私は死ぬことを選択した。死への恐怖を消し去ると、人間は初めて信仰の根拠を、かも容易に叩き割ることができるだろう。とは言うものの、そこから飛び降りれば、全てが終わるわけではないともわかっている。私の中の肉体と精神が剥離され、どこかの次元空間を伝い分散されるだろう。それは時に異世界で巡り合うかも知れない。ただ神という存在をようやく拒むことができるだろう。しかし、この論説はそもそも科学への信仰により成立していた。死へ向かう最後の一歩までを信仰に頼り、その先に果たして『完全なる死の克服』が待っているのだろうか。私はそうして死への最後の一歩を留めていた。これも神の力か。私の意志とは、どこまでも信仰から生ずるのだろう……。

 撤回しよう、私は神に見捨てられていないどころか神に縋り倒している。生が贖罪であるだと言った『神』は残酷だ。信仰がこの肉体を動かし、本来宿る精神を葬るのなら、私は神が自身を苦しめるために生まれたのではないか。私は両目がはち切れそうな痛みの中で、ノートパソコンに向き合いこの文章を書いている。苦し紛れに書き記すこの文面は、神が苦しめた産物に過ぎない。しかし神を創ったのは誰でもない、人間だ。そして私の敵は、私の肉体の隅々にまで餌を撒き、その身を一生の絶望のために捧げよと内から首を締める、人間だ。


(続く・・・?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?