Adan #6
僕にキスをしたのは誰なのか[1/7]
僕は自宅のベッドで横になっているときに襲われたんだけど、眠りに落ちていたってわけではなかった。
僕はその日、精神的に参っていた。婆さんでない方のデスティニーさんのことを忘れようと思って向かった韓国のカジノ、ウォーカーヒルでギャンブルの真髄に触れて帰って来たばかり、平たく言うと、大負けして帰って来たばかりだったのだ。だから僕はアイマスクとイヤーマフをし、悪い夢からさめたい一心でベッドに横になっていたというわけなんだ。
出し抜けに唇を奪われたとき、僕は現実から外へ退場、つまり夢の中へ入場したのだと思っていた。だからそれを満喫してやろうっていう常識的な考えに発展し、そうして僕はつつがなく、道徳心を提供した報酬として大いなる痴情を獲得したのだ。
僕はその唇と結構長く、くっついていた。五分くらいやっていたと思う。夢でないのはとっくに気づいていたが、やめられなかった。そのキスがあまりにも、あまりにも情熱的だったからだ。そう、僕のファーストキスはディープキスだったのである(僕が人生で舌を絡ませた相手と言えばカップアイスの蓋くらいなもので、それまで誰かとディープキスはおろか、チークキスすらしたことがない。なので、キスをやめられなかった僕に理性を求める人は理性的な人ではない!)。
僕はその唇が離れたあともベッドに横になったまま動かなかった。というか、そうすることしかできなかった。一般に正気と言われるその気に返ったら怖くなったのだ。冗談抜きで、キス魔のお化けなのでは、と思ったりもした。合鍵を持っている顔も体格もゴリラみたいな家政婦のおばさん、姫宮《ひめみや》さんは法事があるから休むと言っていたし、これまた合鍵を持っている姉の子供、甥の利亜夢《りあむ》が僕の部屋によく来るが、彼が僕にこんな情熱をぶつけてくるわけない。もし利亜夢なら、天地がひっくり返っていなければならないだろう。
唇が離れて一時間くらい経っていただろうか。僕は横になったまま、目を覆っているアイマスクの端を両手で掴んでちょっと上げた。そして僕は誰もいないと判断したから、アイマスクをおでこまで上げ、イヤーマフとナイトキャップを取りながら上半身を起こした。
「あ、死んでなかった」
僕の耳がそんな利亜夢の声を感知した。したがって僕は、声のした方に顔を向けた。見ると、利亜夢はベッドの脇にいた。床に座っていた。
利亜夢はどこで取ってきたのか、羊の蹄のような形をしたフイリソシンカの常緑の葉(フイリソシンカには確か羊蹄木《ようていぼく》という別名もあったはずだ)をたくさん握りしめ、けしからんことに、その葉を寝室にまき散らかしていた。そのフイリソシンカの葉はさっきまでロッキー山脈のようにそびえていた僕の腹の上にもあった。利亜夢はおそらく数えてもらえなかった羊がヒステリーを起こして暴れ回った様子を表現したかったんだろう。
「どんなに眠れなくてもヒステリックな羊なんて数えるつもりはない。利亜夢、葉っぱを片づけろ!」と僕は怒鳴った。
「どうして?」
利亜夢はお得意の「どうして?」で応戦した。いつものことだ。彼は僕を馬鹿にしているのだ。彼は僕の「生煮えの片づける理由」を聞いて、ほくそ笑みたいだけなのだ。僕は利亜夢を見据えながら言った。
「どうしてって、利亜夢、僕の寝室に葉っぱは必要ないんだ。『昨日の僕は元気かな?』って心配くらい必要ない」
どうしてそんなことしか言えなかったのか、それにはしっかり火の通った理由がある。僕はキスの一件で頭の回転に必要なブドウ糖を使い切っていたのだ。
が、それがかえって幸いした。僕の生煮えの片づける理由に満足したのか、利亜夢は大人しく葉を拾い始めたのさ。薄ら笑いを浮かべていたが、とにかく彼に葉を片づけさせることができた。僕は試合に負けて勝負に勝ったのだ。
僕はベッドから起きた。そして葉を拾う利亜夢を監視した。
備瀬《びせ》利亜夢。彼は五歳の誕生日を迎えたばかりの幼稚園児だ(※これは昨年の九月半ば頃の話である)。利亜夢はよく女の子に間違われる。彼は同い年の子と比べると細くて、背も低い。そしてマッシュルームカットの頭に、妙に色気のある二重の目を装備している。あの姉とあの義兄の創作物にしては上出来だ。ハイブランドの服も着こなしているし、可愛い子供だ、見た目だけは。
利亜夢は僕にいたずらばかりする。ストロベリーソースに見立てたデスソースをおやつのパンケーキにかけられたり、シューツリーにガムをつけられたり、車の尻に空き缶をたくさんつけられてブライダルカーにトランスフォームされたりなどということは一度や二度ではない。とりわけシューツリーにガムをつけられるのは最悪だ。アウトソールではなく、インソールにガムがつく悲劇に見舞われたことのある同志はいるだろうか? さらに、紙とか布とか革などに穴をあけるネジ回しみたいな形をしたスクリューポンチとかいう道具で、クローゼットの中の服やベルトは勿論、まだ読んでいない新聞に印刷された数字のゼロだとか、句点だとか、半濁点だとか、ひらがなの「る」だとか、とにかく「まる」を狙って穴をあけられたこともあった(お悔やみ欄だけは無傷だった)。まあ、そのスクリューポンチとやらでコピー用紙をルーズリーフにしてくれたのはありがたかったが。
利亜夢は僕の寝室にまき散らした葉を素直に片づけ終えたわけだが、僕の部屋を散らかしていたのは利亜夢だけではなかった。見知らぬ女の子が居間を荒らしていた。
女の子は利亜夢よりも二回りくらい大きくて、おかっぱ頭で、ダメージジーンズに、長袖の赤と黒のボーダーシャツを着ていた。その子が居間で何をしていたのかというと、彼女は奇声を発しながら、チャッキーに向かって拳銃型の水鉄砲を撃っていた。チャッキーとは姉の飼っている黒白の雄のボストン・テリア(六歳)のことだが、彼の方はその水鉄砲から放たれた水を口でキャッチしようと奮闘していた。愛用しているイヤーマフの防音性の高さを、僕はこのとき初めて知った。
僕は羊飼いの少年とガンファイターの少女とびしょ濡れのタキシードを着た小さな紳士を部屋から閉め出した。股間を三発蹴られながらも、なんとか撃退できた。
そのあとベッドに戻った僕は、女心という奇妙奇天烈な問題と格闘することになった。利亜夢が僕にキスするなんてあり得ないから、どう考えても犯人はあの女の子のはずなのに、彼女から好意を持たれている感触がまったくなかったのだ。彼女に股間を蹴られたとき、好きの裏返しで蹴っているようには見えなかった。悪意しか感じなかったのだ。
「生きたい」という叫びであるデスホイッスル(僕のスマートフォンの着信音だ)が寝室に響き渡ったのは、不可解な問題は不可解であるという理解を深めようとするときだった。電話は姉の亜利紗《ありさ》からだった。電話口で姉は僕に、腹は鳴いているか、と訊いたから、デスホイッスルくらい悲鳴を上げている、と僕は答えた。
電話を切って、僕はキスの問題を頭の奥の物置に押し込んだ。そして僕はパジャマ姿のまま、隣の備瀬家の部屋へ行った(ちなみに僕の住んでいるマンションの最上階は僕の部屋と備瀬家の部屋の二部屋だけだ)。
備瀬家のダイニングテーブルの中央には、シーフードパエリアが鎮座していた。そしてそのテーブルの椅子には利亜夢と、例の女の子と、もう一人、モナ・リザのような幽玄な雰囲気を漂わせた黒いロブヘアの美しい人が座っていた。
その美しい人は、黒のノースリーブのオールインワンという大人の装いだった。僕はカラフルな星柄プリントのパジャマを着ていたからその人を目にしたとき形勢不利とみて退却しかけたけれど、こういうときこそ堂々とせねば、という気概を発揮することができ、無事着席に成功した。
「お邪魔してます」と僕の真向かいの椅子に座っているモナ・リザが言った。
「お邪魔させてます」と僕はモナ・リザに言った。
つづく