Adan #5
画家のデスティニーさん[4/4]
僕の書いたシナリオの原稿用紙をお婆さんは破り捨てたわけだけど、僕はその原稿用紙に何の未練も感じなかった。デスティニーさんに会えるのだ、すぐに!
僕は天にも昇る心地だった。一方の北斗はというと、彼はうなだれていた。そんな北斗を見て僕の嬉しさは倍増した。成層圏くらいまでなら本当に飛べそうな気がした。
デスティニーさんが来ることをお婆さんから聞いて、ほんの二分後くらいだ。僕らのいる店の前で、デスティニーさんの車と思しき黄色いステーションワゴンが停まったのは。
「LOVEとMONEYは両思いなんだ」と僕はその車を見てそう呟いた。そして僕は、その車の運転席の方に目を凝らした。
運転席から出てきたのは、ラフな格好をした男の人だった。三十代くらいで背の高い、ハンサムな人だった。
僕は車の助手席と後部座席に目をやった。デスティニーさんが同乗していないか確かめたのだ。が、誰も乗っていなかった。
「残念。今日こそは両頬のほくろを同時に押してやりたかったのに。妹の旦那が来たか」とお婆さんが言った。
妹の旦那。僕はその言葉の意味をすぐに理解できた。けれども、お兄さんには妹が二人いて、目の前の男性はデスティニーさんでない、もう一人の妹の旦那さんなのだと、僕は改めてそう理解しようとした。まあ、自己防衛本能が快調に作動したってわけさ。
「妹の旦那って、両頬にほくろがある人の旦那でいいんだよね?」と北斗がお婆さんに訊いた。
僕はこのとき北斗の頭から生えた二本の角を認めた。北斗は僕のためを思ってお婆さんにそんな野暮な質問をしているわけではない。彼は自分のために質問しているのだ。
僕は立っていられなくなった。その場にへたり込んでしまった。そうなったわけは、北斗の質問に対するお婆さんの回答が、自身の両頬を人差し指で同時に押しながら首を縦に振る、というものだったからである。
北斗は有名人にでも会ったかのような様子だった。彼は明るい声でデスティニーさんの旦那さんに握手を求めていた。そのままサインも求めそうな勢いだった。
それから僕はお兄さんがデスティニーさんの旦那さんと北斗に抱えられて車の後部座席に放り投げられるさまを黙って眺めていたわけだが、ほどなくして息を吹き返してきたアルコールに再び襲われた。目を閉じると、僕はいくらでも世界を回転させることが可能になっていた。
「アキレス腱でも切れたのかい?」とお婆さん。「うちの店でリハビリしていきな」
お婆さんは僕を気遣ってくれた。このとき僕にはお婆さんの顔が、かの有名な修道女の顔と重なって見えた。
僕はどうにかこうにか立ち上がった。そして僕はお婆さんのご厚意に甘えて、足を引きずりながら店に入った。
お婆さんの店は五坪ほどのカウンターバーだった。カウンターの中の三段になった飾り棚には世界中の色んな種類の酒をたくさん並べてあって、天井から吊られた三本のペンダントライトの青白い光が、一枚板と見られるカウンターテーブルを照らしていた。客はいなかった。そして店内には、オードリー・ヘプバーンの歌うムーン・リバーが流れていた。
はてさて、かの有名な修道女に案内された場所で地獄を見るなんて、誰が想像できるだろうか。それはオアシスを求めて砂漠を彷徨い、やっと見つけたオアシスで溺死してしまうようなものじゃないか。問題は店内の壁だ。このときの僕にとってその壁面と遭遇することが如何に酷であるか、ここまで読んでくれた心優しい暇なあなたなら分かってくれると信じている。
店内の壁がどんなものだったのかというと、その壁はテーマの窺い知れない前衛的な絵で埋め尽くされていた——そう、壁全面にデスティニーさんの絵が飾られていたのだ! 僕の見た限りではすべての絵の右下に「デスティニー」としっかりサインが入っていたし、言葉で言い表せない絵のタッチは、紛れもないデスティニーさんのそれだった。
僕は出入り口のドアの前から動けなかった。立ち往生とはまさにこのことだが、そんな立ったまま死んだ気分になれたのも一瞬だった。というのも、背中から北斗に体当たりされたのだ。ドアを開けて勢いよく店に入って来た北斗に、僕は出入り口付近から三メートルほど前にぶっ飛ばされたのである。
「亜男! あの酒飲み、二十万近くあったこの店のツケを最近全部払ったらしいぞ! それからお前が惚れた自称画家のあのおばさん、子供が五人もいるらしいぞ! 怪我はないか?」と北斗が明るい声で言った。怪我はないかって言葉をそんな調子の声で言ってはいけないし、何より真っ先にそれを言わなければいけないのは言うまでもない。
白黒のチェス盤模様のこの床はいったいどれだけの色彩に白黒つけられてきたのだろうか、と僕はそんなことを考えながら、床と慰め合うようにそこへ顔をこすりつけていた。僕は立ち上がらなかった。怪我をしたわけではない。立ち上がろうと思えば立ち上がれたが、立ち上がろうと思う気になれなかったのだ。
「お婆ちゃん、壁を埋め尽くしてるこの絵って、さっきの酒飲みの妹が描いた絵だよね。何でこんなに飾ってるの? 不気味なものをあえて飾るっていう魔除けのつもり?」と北斗がからかうような口調でお婆さんにそう尋ねたのが聞こえた。北斗もデスティニーさんの絵だってすぐに分かったようだ。サインも入っていたし、分かって当然だろう。
「壁の絵は全部私が描いた絵だよ、趣味で」とお婆さんは言った。「客に無理やりプレゼントしてるんだが、君、もらってくれるかい? さっきの飲んだくれは断固として受け取らなかったが、迎えに来たほくろの妹には何枚かプレゼントできたよ、無理やり」
お婆さんは嘘をついている。そう思うのはいけないことだろうか? 僕は床にさよならのキスをして立ち上がった。
「じゃあ訊くけど、お婆さん。ほくろの妹さんにプレゼントしたっていうその絵のタイトル、憶えてる?」
僕がやや喧嘩腰にお婆さんにそう尋ねたのは、デスティニーさんから買った絵の裏に、サインと同じ筆跡でタイトルが記されていたからである。絵を描いた本人ならタイトルを答えられるでしょ、という趣旨の質問だ。するとお婆さんは腕を組んで考える素振りを見せてから、こう答えた。
「ええと確か、踊り子と踊り字を踊り食いする踊り場と、豚の価値を把握している真珠と、それと——」
もう結構、と言って僕はお婆さんの発言を遮った。そして僕はカウンターチェアに腰かけて、この店で一番強い酒を一杯だけ頂戴、とお婆さんに頼んだ。
「デスティニー婆ちゃん、絵、一枚もらっていい? 記念に」と北斗が言った。この悪魔がお婆さんのことをわざわざ名前で呼び始めたのは僕への当てつけに相違ない。
看板のライトが消えていて気づかなかったが、お婆さんの店の名称は「バー・デスティニー」だった。それからお婆さんは僕に酒を出してくれたあとに、デスティニーというのは源氏名だって話をしてくれたのだけれど、そんなことはもはやどうでもいいことだった。
北斗が僕の肩に手をまわして言った。「大好きなデスティニーさんの絵に囲まれて酒が飲めるなんて、最高じゃないか、亜男」
僕は北斗に言った。「ああ。もう死んでもいい」
情けないことに、デスティニー婆さんから出された酒を飲み干した辺りから僕の記憶はない。目が覚めたら、自宅のベッドの上だった。
僕は起きてすぐ、豚の絵がないことに気がついた。そのまま居間に出てテレビのそばに目をやると、そこに掛かっているはずの踊り子の絵もなくなっていた。
よろめきながら部屋中を捜してみると、二枚の絵は金庫に入っていた。北斗も午前中だけいる家政婦も金庫を開けられるはずないから、どうやら僕が自分で入れたらしい。とはいえ、僕は絵を捜し当てたものの、デスティニー婆さんのその二枚の絵を金庫から出さなかった。これからベッドに戻って二度寝するのを、豚に邪魔されたくなかったから。
画家のデスティニーさん〈了〉