表紙_渚のアストロロジー

Adan #19

渚のアストロロジー[7/7]

 パーラー百里を出た僕は、その足で渚ちゃんに指定されたマンスリーマンションの営業所へ向かう気でいた。ところが、渚ちゃんから渡されたパンフレットを見ると、営業所の営業時間はすでに過ぎていた。一応電話してみたのだけれど、本日の営業は終了しました、というガイダンスが流れた。そんなわけで、僕は仕方なく家に帰った。

 僕はその日の夜、夜と共に夜更かししなかった。明くる日に備え、普段よりずっと早くベッドに入った。僕がこんなに早く床に就くなんて、「ベッド」と「夜」を驚かせてしまったかもしれないなあ。おまけに、感情を考慮していない理論を理論として認めたくないし、逆もまた然りで、理論を考慮していない感情を感情として認めたくないなあ。

 翌日の午前十時、僕は渚ちゃんに指定されたマンスリーマンションの営業所へ行った。

 入居手続きは時間のかかるものではなかった。契約書を書いて運転免許証と一緒に提出すると、すぐ審査に通った。家賃をクレジットカード決済にしたら、大学休学中で仕事をしていなくても問題ないとのことだった。保証人も連帯保証人も神への誓いも不要だった。それから僕は実際に渚ちゃんの住む即日入居も可能なワンルームの家具家電付きの部屋を営業所の人と見に行って、そうして自宅に帰って来たんだけど、時刻はまだ正午前だった。

 北斗から僕のアイフォンに「まもなくお前の部屋にドミノ・デラックスが届くから、手厚くもてなしてやってくれ。もう俺はそちらへ向かっている」という、世間の常識にとらわれないメッセージが届いたのは、僕が居間でひとり、昼食のビッグマックを食べながらテレビでスポーツ・ベッティングに興じているときだった。

 北斗からメッセージを受け取ったその三分後、僕の部屋にピザが届いた。したがって僕は、宅配員にピザの代金を払い渡した。立て替えたわけじゃない。僕は北斗の財布なんだ、幼い頃からずっと。別に恩を売っているとかそういうわけでもなく、僕としては野良猫に餌をやっているような感覚なんだ。彼のほうも猫好きの人間から餌をもらっているような感覚だと思う。

 そんな北斗が僕の部屋にやって来たのは、ピザが届いて一分後のことだ。

「亜男、お前また太ったんじゃないのか?」と彼は部屋に入るなり、薄笑いを浮かべながらそう言った。「顔がマシュマロマンくらいぱんぱんだぞ。ゴーストバスターズに見つからないよう気をつけろよ」

「六日連続で夕食にタコライスを食べているからかなあ……僕の顔をマシュマロマンみたいにしたのはタコライスなのかどうか、君からタコライスに訊いてみてくれよ」

 僕がそう言ってしまうと、北斗探偵の緑色の虹彩がきらめいた。

「やっぱりストーキングしてるのか。で、いつ警察に捕まる予定なんだ?」

 面倒臭いと思ったけど、僕は北斗にちゃんと説明した。渚ちゃんにつきまとっているわけではなく、彼女にプレゼントを渡すためにパーラー百里に通いつめているのだと彼に言った。僕はその証拠として、渚ちゃんへのプレゼントを購入した際に受け取ったクレジットカードのレシートまで彼に見せた。

「まあ、せいぜい頑張れ」北斗は僕にレシートを返した。「そんなことより、ドミノ・デラックスをこれ以上待たせては失礼だ。ドミノ・デラックスが冷めていくのと反比例するように、俺のドミノ・デラックスへ対する思いは熱くなっていくばかりなんだ」

 野良猫はそう言って居間のローテーブルの上の餌に一瞥をくれると、キッチンへ入って行った。それからしばらくして、野良猫は氷の入ったグラスと、ウイスキーのボトルと、ソーダ水のペットボトルを持って居間に戻って来ると、ソファに腰を下ろしてハイボールを作り、それを一口飲んでから、ピザのボックスを開け放った。そして野良猫は声を上げた。悲鳴だ。ソファから跳び上がった野良猫に向かって僕は言った。

「食い意地を張るにもほどがあるよ、北斗! そんな虫をオプションでトッピングしてもらうなんて!」

 北斗の顔はロシアンブルーのように青ざめていた。彼は人間らしく二本足で立って、ピザにトッピングされた虫を唖然たる面持ちで眺めていた。

 僕に気の毒だと思われている北斗があまりに気の毒で包帯を巻いてやりたいくらいだったので、僕は早々に種明かしをしてやった。ピザにトッピングされたその虫は(エスペラントで「blato」と呼ばれている、多くの人が嫌っているであろうあの虫さ)、本物を忠実に再現した利亜夢のおもちゃなんだ。僕は彼の言われた通りにドミノ・デラックスを手厚くもてなしてやったっていうか、いつも利亜夢にやられていることを北斗にやってみたってわけ。僕のいたずらだと知った北斗は、深呼吸をしてからこう言った。

「ピザ屋のサービスじゃなくてよかったよ」

 それから北斗はそのおもちゃの虫を僕に投げつけてピザを食べ始めたのだけれど、食欲が失せたのか、食べるのに時間がかかっていた。僕は悪意からおもちゃの虫のその腹をあらわにする格好で置いたものの、食べるのに支障のないよう、善意からピザの耳にイヤリングをするようにそいつを置いてやったのに、北斗はそいつが置かれたところのピザを丸々残していた。

「で、今日は占い師に何を奉納するんだ?」と北斗がティッシュで口元を拭って僕に尋ねた。

「山羊。というのは冗談で、マンスリーマンションの部屋」と言って僕は、ローテーブルの上に置いていた渚ちゃんの部屋のカードキーを取った。そしてそれを北斗に見せた。

「さては要求されたな。お前がそんなプレゼント思いつくはずない。水道代とか光熱費とか、家賃も全部お前が払うのか?」

 僕が頷くと、北斗は鼻で笑った。そして言った。「俺としてはお前が派手に振られるさまを見聞したいわけだからむしろ何も警告したくないんだが、これだけは言わせてくれ。友人が犯罪者になると、俺の名誉も傷ついてしまうからな。亜男、その占い師の生活の面倒をみるのはお前の勝手だが、くれぐれも変な気を起こすなよ」

「変な気ってどんな気だ? 皇太子同妃両殿下に向かってスパナを投げるとか、そういう気のこと?」

「違う。俺の言う変な気ってのは、合鍵を作ってその占い師の部屋にこっそり侵入するとか、そういう気のことだ。いくら生活の面倒をみてあげてるからって、そういうことをしたら終わりだからな。まあ、終わったお前を見てみたいという気持ちが俺にないと言えば嘘になるが」

「そんなことするわけないじゃないか! たとえ渚ちゃんから『合鍵を作って私の部屋にこっそり侵入して』と言われたとしても、僕はそんな頼み絶対に聞き入れない! ただし、彼女にそういう特殊すぎる性的嗜好があるのなら——そこは二人でじっくり話し合って妥協点を模索するだけのことさ!」

「まあとにかく、俺は今日やっとバイトが休みなんだ。そのカードキー贈呈式の立会人になってやるよ。ついでに、お前とその占い師の相性を俺が実際に会って占ってやる。あとせっかくの機会だから、その当たるっていう占い師に俺も占ってもらおうかな。いつ運命の人に出会えるのかを」

「運命の人が宇座あいだったら君に同情するよ」

「おう。そのときは頼むぞ。うんと慰めてくれ。そして大いに嘲笑してくれ」

 それから僕らは酒を飲みながらスポーツ・ベッティングに興じ、無駄なあがきをした受験生の目のように西の空が充血してから、徒歩でパーラー百里へ向かった。僕の自宅マンションからパーラー百里までは徒歩で十五分もかかるから(さすがに百里はない)、僕はいつも車を運転して行くか、タクシーを利用している。僕がこのとき徒歩を選んだのは、スポーツ・ベッティングの成績が芳しくなく、「外の空気を吸わせてくれ」と己の肺にそう懇願されたからである。

 僕らは六時ちょうどにパーラー百里に着いた。当然ながら渚ちゃんはいなかった(渚ちゃんは星なのさ。彼女は日没後に出現するんだ)。店内には、ボブ・マーリーの「Three Little Birds」が流れていた。余談だが、この曲のオフィシャル・ビデオに登場する女の子のスキップを観て、僕は安心したものだ。

 僕と北斗がタコライスを注文しようとカウンターへ行くと、キッチンからラスタカラーのウエストエプロンをした店主の田古田さんが出てきた。田古田さんは巨漢で、頭がドレッドで、顔の彫りが深くて、肌は浅黒い。彼はこれでも日本人で、年齢は二十九だと言っていた。田古田さんの奥さん——タカコさんの姿はなかった。宅配に出ていたのかも。

「亜男くん」田古田さんが言った。「渚ちゃんのことについて話しておかなきゃならないことがあるんだ。君にとって都合の悪い話なんだが——」

「遠慮なく話してください」と北斗が言った。「亜男の耳は自分にとって都合の悪い話を聞く、そのためだけに付いてるので」

 田古田さんが僕を見たから、僕は田古田さんに頷いて見せた。たとえ僕の耳が田古田さんの話に耐えられなくても、愛する渚ちゃんのことなんだ、僕はそれを聞かなきゃいけない。僕は「聞きたくない!」と嫌がる鼓膜の叫び声に耳を塞いで、田古田さんの話に耳を傾けた。

「カサガイの歯か何かで出来た頑丈な素材の転ばぬ先の杖を亜男くんは持ってるみたいで安心したよ。転ばぬ先の杖がつく杖を持ってるってことなのかな。亜男くん、残念だけどもう渚ちゃんは来ないんだ。彼女が所持していた携帯電話のこととか、行動を共にしていた人物のこととか、諸般の事情は渚ちゃんの名誉のために話すのを差し控えさせてもらうけど、実は彼女、家出少女だったことが判明してね。渚ちゃんは十八じゃなかった。彼女の本当の年齢は十三。びっくりだよね」

 鏃《やじり》に毒を塗った北斗の視線が僕の顔に刺さった。しかし、僕は北斗のそれにまったく痛みを感じなかった。もっと痛いところがあったからだ! 田古田さんは話を続けた。

「渚ちゃんはこましゃくれているし、身長も高いから、むしろ二十二、三って言われたほうが納得しちゃうよね。はっきり言っちゃうと、十三歳にしては老けてる。そう見えてしまうのは、彼女の内面が外面を覆っているからじゃないかな。内が外を覆うっていうのはおかしな表現だけど、渚ちゃんの外面に対してはそんな表現がしっくりくるよ。身元も確認せずに店内の一角を間貸ししちゃったから、俺もすごく反省してるよ。でもまあ、無事に家に帰ったわけだからハッピーエンドだね。渚ちゃんのお母さんにもすごく感謝されたし。渚ちゃん、占いの稼ぎはあまりよくなかったけど、金には困っていない様子だったなあ。たぶん亜男くんっていう金づ——いや、支援者がいたお陰だろうね。亜男くん、用があってもしばらくこの辺の質屋には行っちゃ駄目だよ。顔なじみの品物たちと出くわすおそれがあるから。で、今日は何を献上——いや、プレゼントする予定だったの?」

「今日は部屋です」と北斗が答えた。「家具家電付き、水道代なし、光熱費なし、賃貸料なしのマンスリーマンションの部屋です」

 僕は渚ちゃんにプレゼントするはずだったマンスリーマンションの部屋のカードキーを自身の顔の横で振って田古田さんに見せた。すると田古田さんは腕で口元を隠した。笑うのをこらえているようだった。

夕凪が招く(ユウドゥリガマニク)
思加那の佳声(ウミカナヌカクイ)
面影とやがて(ウムカジトゥヤガティ)
風になゆる(カジニナユル)
詠み人 荻堂亜男

 ここでいきなり琉歌《りゅうか》を詠んだのは、詠みたくなったからだ。どういう意味かって? そんなこと説明させないでくれ!

 さて、渚ちゃんが家出少女だったってことを田古田さんから聞いたそのあと、僕はタコライスを食べたのだろうか……それがまったく記憶にないんだ。思い出すことができるのは、おそらくパーラー百里を出て家路に就いていたと思うのだけれど、一番星を眺めながら信号を渡ろうとしたら、北斗にシャツの襟を掴まれて、こう怒鳴られた場面からなんだ。初めて渚ちゃんと会ったとき、彼女は僕に「今週から来週にかけて事故に気をつけてください」と言っていた。渚ちゃんは本当に予言者なのかもしれない。

「赤だぞ! 死ぬ気か! 亜男、あの世の女は温かいだろうって思ってんなら、それは見当違いだぞ! みんな冷たくなって向こうへ行ってるわけだからな!」

渚のアストロロジー〈了〉


【あとがき】
 渚のアストロロジー、いかがだったでしょうか(笑)。
 渚ちゃんが十三歳の女の子だったというオチ、このオチには荻堂亜男の着ぐるみの中の僕もびっくりしました。「本当にこれでいくのか」と(笑)。作中の渚ちゃんもびっくりしたかもしれません。
 読書は楽な作業というわけではないと思いますし、しかも、この小説を読むために貴重な時間を使っていただいているわけですから、何としても面白いオチを用意したかったのですが……ごめんなさい。何も思いつきませんでした。本当にすみません。😢
 次回「Adan No.20」は、8月3日(土)の午後にアップいたします! 「はじめてのアルバイト」という話をスタートさせます!
 正確な文章も、面白い物語も、笑える冗談も全然書けていないくせに毎度毎度こんなことを言うのは大変恐縮なのですが……「Adan No.20」以降もまた読みに来ていただけたら、ものすごく嬉しいです!😂