表紙_2

Adan #9

僕にキスをしたのは誰なのか[4/7]

「夢を見ただけだろ。瞼の裏に録画してあった願望を観賞しただけだ」と北斗。

「僕だって夢であって欲しいと思ってる。こんなファーストキスは嫌だからね。でも、非現実的なハプニングがたいてい非現実でないように、今回のハプニングも例外なく非現実ではないんだ。僕は眠っていなかった。いつも襲ってくる睡魔の奴が熟睡してたんだ」と僕。

 あのいまいましいタクシーを降りたあと、僕は北斗に電話した。すると北斗はアルバイトが休みで自宅にいたから、僕はタクシーを拾って、彼の家へ行ったんだ。

 北斗の部屋に上がり込んだ僕は、さっそくキス事件の顛末を彼に話した。勿論「さっきのキスは激しかった」というヒカルさんの呟きを聞いたこともすべて話したのさ。

 そう言えば北斗の家——樋川家についての説明はまだだった。ええと、手短に述べる。まず、彼の家も北谷町にある。僕の自宅マンションと彼の住むおんぼろアパートはどういう意図か知らないけれど、徒歩五分の距離だ(近い方が誰かさんにとって都合がいいんだろう)。介護福祉士をしているまだ三十代の母親と、北斗はその三階建ておんぼろアパートの二階の狭い2DKの部屋でひっそりと暮らしている。彼は僕と同じく、母子家庭で育った。両親が離婚したとき、彼はまだ赤ん坊だったという。つまり北斗も僕と一緒で、世話を焼きたい病《びょう》を患うかもしれなかった父親に手を焼かされることなく育ったってわけ、うん。僕の父親がすでに他界したことは話したはずだけど、北斗の父親はまだ生きている。昨年の暮れ、ワシントン・ディーシーに住んでいる父親に、十数年ぶりに会いに行ったと北斗は言っていた。彼の父親は除隊して、今は軍事ジャーナリストをしているとのこと。そうそう、北斗がプレイボーイなのは親譲りだ。彼の父親は離婚と再婚を繰り返していて、北斗が家を訪問したときには僕らと同じ年齢、二十歳のウクライナ人女性と火遊び中だったらしい。

「夢ではないとなると」と女たらしの息子の女たらしが、僕の電子葉巻を吹かしながら言った。彼はパイプベッドの上であぐらを組んでいる。「姫宮さんに襲われたってことか。膝上丈のメイド服を着ているのは亜男を誘惑していた、そういうわけだったんだな」

「姫宮さんは休むって言ってたんだ、法事があるとかで」と僕は言った。僕は北斗が幼い頃から使っている学習机の椅子に腰かけていた。「あと、姫宮さんのあの格好は、単に趣味で着ているだけだと思う」

「それじゃあ、チャッキーにやられたんだろう。お前の顔もボストン・テリア界では通用するのかもしれない、かろうじて」

「利亜夢と同様、チャッキーが僕に懐いてくれないのは君もよく知ってるだろ。僕がチャッキーに向かってお手と言ったら必ずその手を噛まれるのは、そういった芸を仕込んだからじゃない。嫌われてるだけなんだ。それに僕はアイマスクとイヤーマフはしていたが、ノーズクリップまでしていたわけじゃない」

「じゃあ、そのモラちゃんって子にやられたんだろ。よかったじゃないか、ファーストキスが人間で。しかも女だ」

「一万円は一万円札でもらいたいじゃないか。一円玉で一万円を渡されても困る。性別はフィーメイルでも、五歳児にファーストキスを奪われるっていうのはそういうことだ。っていうか、モラちゃんと一緒にデパートにも行ったけど、彼女も僕にまったく懐いていなかったんだ。ということは……」

 僕は北斗に犯人捜しをしてもらうつもりでやって来たわけではなかった。僕は彼の口から、キスしたのはヒカルさんに違いない、というような言葉を聞きに来ていたんだ。

「ということは」北斗が言った。「ウォーカーヒルで悪霊にとり憑かれて帰って来たってことか。ギャンブルにはまり、借金苦で自殺したおばさんの霊に唇を奪われたわけだな」

 僕は嘆息をもらした。で、こう言った。「世の中に暇潰しが溢れるほどあるせいで、現代人はその暇潰しに追われ、自分のやりたいことをする時間を失ってしまったわけなのだけれど、お化けは僕ら以上にそうだと思う。お化け社会も暇潰しが溢れるほどあって、僕なんかにとり憑いてる暇はないはずだ。とにかく、利亜夢でも姫宮さんでもチャッキーでもモラちゃんでもない。ということは——」

「亜利紗にやられたってことか」

 僕は北斗に向かって両手の中指を立てた。できることなら両足の中指も立てたかった。

「ヒカルさんって人にキスされたんだろうな。よかったな、亜男」

 北斗のその発言はあまりに唐突だった。母子ともに健康です、と本人から報告を受けたときのあなたの首のように、ぴんと立っていた僕の両手の中指は項垂れてしまった。北斗は続けて言った。

「ヒカルさんって人のその行動は背徳行為だが、道徳の方だって人間にずっとしがみつかれてもしんどいと思ってるだろうしな。まあ、許してやれよ」

 北斗は僕にとって何か都合の悪いことを思いついたって顔をしていた。気味の悪い笑みを浮かべていた。でもまあ、そんな表情を浮かべていなかったとしても、僕は彼のよこしまな考えを嗅ぎ取ることができたろう。何せ、十五年以上の付き合いなのだから。

「僕らはもう二十歳、大人だ。考えが子供っぽいと言われて憤るどころか、むしろそう言われると悦に入るのは、大人になってしまったからなんだ。そして大人の興じるかくれんぼでは、大勢の鬼の方が隠れるってルールなのも僕は承知している。だからもう君の魂胆は分かっているよ、北斗。その汚染された心の水面に、どういった結末を搭載したプレジャーボートが浮かんでるんだい?」と僕は訊いた。そしたら北斗はこう答えた。

「ヒカルさんって人が実は男だったっていう結末を搭載したプレジャーボート」

 僕は椅子から立ち上がった。そして北斗から電子葉巻を取り上げて、帰る身支度を始めた。何故って、面白くなかったからだ。僕の友人は北斗だけではない。僕がこのとき必要としていた友人は、僕に気持ちのいい言葉を浴びせてくれる友人だ。そもそも北斗とは波長が合わない。彼と気が合うところなんて、敗北する努力家の姿を見て愉悦を覚えることくらいだ。

「休学を取り消したらどうだ、亜男。女々しい琉歌《りゅうか》ばっか詠んでないで、少しは将来のこと考えろ。今を生きるな」と北斗が言った。僕は彼の部屋から出ようとするところだった。

 僕は北斗の部屋の引き戸の前で足を止めはしたが、振り返らずに、ただ肩をすくめて見せた。むしろ僕は今、将来のことしか考えていないのだ。ヒカルさんとの将来のことしか。

 僕はおもむろに振り向いて、北斗を睨みつけた。そして僕は、マーフィーの法則の名句をもじった次の言葉を北斗にお見舞いして、彼の家を後にしたんだ(僕も北斗も実際に眼鏡をかけてるわけじゃないよ)。

「四つ葉のクローバーを発見できる確率は、かけている眼鏡の値段に比例する!」


 つづく