表紙_2

Adan #12

僕にキスをしたのは誰なのか[7/7]

 キス事件から遡ること半年くらい前の話だ。僕は備瀬家の居間でスターフルーツ(カットすると断面が星型になる果物さ)を食べていた。そのとき居間には、利亜夢欠乏症でブレントウッドから帰って来ていたママと、姉と、利亜夢と、利亜夢の友だちの男の子と、話に関係ないがチャッキーもいた。

 何はともあれ、スターフルーツとは食べ物である。投げるものではない。だから僕は利亜夢を叱った。利亜夢が「流れ星!」と叫びながら、友だちとスターフルーツでキャッチボールを始めたからだ。だがしかし、僕はスターフルーツを投げる彼を止められなかった。ママと姉のとった行動を見て呆れ返ってしまい、僕は利亜夢を叱りつけるのをやめてしまったのだ。

 ママと姉が何をしていたのかというと、二人はおのおの手を合わせて、願い事を唱えていた。宙に舞うスターフルーツに向かって、だ。それのみか、ママと姉は利亜夢とその友だちに、三回言えないから低速で投げなさい、とそんなクレームをつけるありさまだった。僕は姉を叱った。母親失格だ、と。子供に食べものを投げさせる親がどこにいるのだ、と。ママに対しては初孫だし、はるばる海を渡って来たから黙認した。というか、ママには何を言っても無駄だ。ママは利亜夢を溺愛しているのだ。彼女は利亜夢が殺人を犯しても、上手に殺せたね、とか言って、彼の頭を撫で回すだろう。もはやママの手は孫の頭を撫で回すためにあり、利亜夢の頭は祖母に撫で回されるためにあると言っていい。いつだったか姉がママに、「死んだら柩《ひつぎ》に入れて欲しいものある?」と尋ねたとき、「利亜夢!」とママはそう速答したこともあった。〈燃えるもの〉という火葬場の規定に反してはいないが、この回答にはさしもの姉もひいていた。とはいえまあ、利亜夢も祖母《ばあ》ちゃんの柩に入りたいのかもしれない。彼も彼で、祖母ちゃんに懐いているのさ。何でも買ってくれる祖母ちゃんだし、それに夏太朗兄さんの両親はもう他界しているから、利亜夢にとって祖父母は僕のママだけなんだ。僕の祖父母も存命しているのはパパの母親である東京の祖母ちゃんだけだから、利亜夢が祖母ちゃんに懐く気持ちは分からなくもないんだが。

 と、僕がこんな半年前の話をしたのは、如何に利亜夢が誰にも邪魔されずに、自身の思うままに第一の人生を送っているのか、それを分かってもらいたいためだ。彼の母親の機嫌に問題がなければ、利亜夢の邪魔をすることは誰にもできない。そう、僕の口に性具を押し当てることくらい、彼には朝飯前なのだ。

 僕はポルノを人並みに観賞するけれども、性具なんて使ったことはおろか、現物を見たこともない。にもかかわらずそれが性具だって一瞬で分かったのは、性具にしか放出できないと思われる霊的なエナジーを感じ取ることができたからだ。僕はその日、アイマスクとイヤーマフをしていなかった。必要なかったのだ。夏太朗兄さんとキスの素晴らしさを語り合い、ハンバーガーとコーラくらい仲良くなった喜ばしい日だったから、心地よい眠りは約束されていたのである。それなのに! 僕は頼んでもいないモーニングコールに快眠を妨げられてしまった。利亜夢の手にする性具の咆哮、けたたましいモーター音に叩き起こされたのだ! 僕が目を開けると、文字通り目と鼻の先に、この世のものともあの世のものとも思えない物体——性具があった。性具はシリコーンのような材質で、人間の口元だけを象ったものだった。そしてそいつは舌を出していた。その舌は不規則に(僕にはそう見えた)運動していた。もしもそいつに言語能力が備わっているのなら、何を食べて生きているのか、というこちらの問いに、背徳を食べて生きている、とその口は答えるだろう。

「おはよう」

 目を開けた僕に向かって利亜夢はそう言った。その状況で爽やかに朝の挨拶をしてくるのは利亜夢か、サイコ映画に出てくる殺人鬼くらいだろう。

 ベッドの脇に立っている利亜夢を見つめながら、僕は上半身を起こした。一方の甥はというと、彼は僕と目を合わせたまま、手にしている性具の電源を平然たる態度で切って微笑んでいた。物欲しげに舌を出したまま止まった性具の全体像を、僕はこのとき初めて確認できた。懐中電灯のような形だった。

「おはよう」

 僕は利亜夢に挨拶を返すことから始めた。そして僕は深呼吸をして、心身の緊張をほぐしてから、優しい声で彼にこう尋ねた。ちゃんと洗ったのか、と。性具だってことは勘づいていたから、衛生面のことが気にかかったのである。

「パパの部屋の住人なんだろ、そいつ。『もう一度訊くが』と、もう二度と言わせるなよ、利亜夢。昨日僕の口に押しつける前に、ちゃんと洗ったのか?」

 利亜夢は首を傾げるばかりで、僕の質問に答えなかった。そこで僕は間を置かずに、この悪童を問いつめようとした——そのときだ。ある人物によってそれは遮られた。姉が寝室に入って来たのである。

「やはり持ち出したか」と言って姉は利亜夢から性具を取り上げた。「利亜夢、これはおもちゃじゃないんだよ。あ、いや、おもちゃなんだが、もう触っちゃ駄目。『どうして』って言葉でママを困らせてもいいよ、利亜夢。ママね、今日はあなたの父親のせいで、罪のない子供を殺したいくらい機嫌がいいから」

 利亜夢は母親に向かって微笑んでいた。そして彼は母親の機嫌がこれ以上よくならないよう、足音を立てずにそうっと寝室から出て行った。

 事の真相は何となく分かったのだが、僕は姉に説明を求めた。すると彼女は素直に応じ、性具の電源を入れたり消したりしながら僕に説明した。僕は不規則に運動しているとみられる性具のその舌を目で追いながら、姉の説明を聞いた。

「実はこれ、女性を満足させるおもちゃ。昨日ヒカルからもらったんだが、ちょうどお前が寝てたから、利亜夢に持たせていたずらさせてやったのさ。それよりも、お前がこいつと愛し合うのをみんなで見物してたんだが、亜男、お前すごい食いついてたな。そんなによかったのか? どんなふうによかったのか逆に説明しろよ。お前が失った理性なんて可愛いもんさ。接骨院の先生がむち打ち患者を集めるために暴走運転をしようと企むくらいのもん。それに足の裏だってずっと地面と接吻してるわけだから、性具と接吻することなんて恥ずかしいことでもなんでもない。だから答えろよ、亜男。変なことは考えていなかったけど、めちゃくちゃ変なことは考えていたんだろ?」

 僕は何も答えなかった。姉がぞんざいに扱っているファーストキスの相手を、僕はただじっと見つめていた。そして僕は、誤解されるような話をした夏太朗兄さんを心の中で非難した。僕はその性具が夏太朗兄さんの嗜好品(積んだ徳を降ろしたくなったときに親しむ)だと思っていたのである。キスの素晴らしさを語った人の息子があんなモノを持っていたら、誰だって誤解するじゃないか。

 姉と夏太朗兄さんはその性具が原因で喧嘩になったらしかった。下品な姉が冗談で夏太朗兄さんに性具を見せたところ、冗談の通じない夏太朗兄さんは「卑猥だ!」と怒って部屋を出、僕に電話したってわけ。

 とはいえ、姉と夏太朗兄さんの夫婦仲が険悪だったのは三日ほどだ。僕も出し抜けにキスされたいなあ、と夏太朗兄さんは僕に語っていたわけだけど、彼はその夢を叶えたせいで、妻に服従せざるを得なくなったのさ。夏太朗兄さんのその夢を叶えてやったのは妻である姉だ。姉は夫と喧嘩を始めて三日目の夜、その夫にたらふく酒を飲ませ眠らせたあと、彼の口に例の性具を押し当てた。そして姉は、夫が性具に発情する様子をスマートフォンで撮影した。夏太朗兄さんが性具の唇を求めるさまは、撮影者が嫉妬してしまうほど激しいものだったという。翌朝、姉がその動画を世界へ発信するぞと夏太朗兄さんを脅迫したことで夫婦喧嘩は終結した。卑猥だと罵ったそいつと卑猥な行為に及んでしまったから、夏太朗兄さんは泣き寝入りしたのだ。

 ——ファーストキスの相手が性具だったなんて、僕には想像もつかないことだった。でもそれよりも、利亜夢から性具を取り上げた姉が寝室から出て行くときに明かしたこと、そのことの方が僕の想像を絶するものだった。姉はこう言ったのだ。

「ヒカルって実は男なんだけど、気づいた?」

 僕にキスをしたのは誰なのか〈了〉