はじめてのアルバイト_表紙

【連載小説】 Adan #23

はじめてのアルバイト〈4〉

 上を向いても、そこに見えていたのは単なる箱の内側だったんだ。そう、猫になった君だけさ。今現在、箱の中にいる僕が生きているのか死んでいるのか、それを確かめられるのは箱の外にいる猫になった君だけ。シュレーディンガーなんかじゃなくてね。僕が生きているのか死んでいるのか、僕自身でそれは把握できないんだ。猫の本心を把握できないのとおんなじで。つまりこういうことさ。猫になった君がついうっかり箱を開けて、その箱の中で僕がニャーニャーと鳴きながら元気に動いていたら、「荻堂亜男は死んでいる」と判断して、そのまま放置してくれて構わないってこと。うん、そういうこと!

 ええと、なんの話だっけ? そうそう、一時間ただ働きでもノープロブレム。僕にはそんなの痛くも痒くもなかった。終日ただ働きでいいとさえ思った。なぜなら、勤務中いくども聖良ちゃんと視線を交わすことができたからだ。

 僕は聖良ちゃんと視線を交わすたびに正人くんにからかわれた。「この色男!」と言われて、肘で小突かれたりした。

「予告した通り、ローライダーに乗って来たよ。終業後にホッピングショーを開催しようと思ってるんだけど」と僕は既存のレシピにとらわれないトッピングをハンバーガーに施す作業をしながら、再三からかってくる正人くんにそう言った。

 僕はこのときまでホッピングはおろか、操作装置であるハイドロスイッチに触れてもいない。にもかかわらず僕がホッピングショーの開催を発表をしたのは、巷で連呼されている「自信を持つのに根拠など要らない」という成句を憶えていたからである(ちなみに、僕のホッピングショーのニュースは瞬く間にスタッフ全員、店長にまで伝わっていた)。——というか、「自信」についてひとこと言わせてほしい。自信に持ち易い取っ手など付いていない、ということ以前に、そもそも物事を行うのにいちいち自分を信じる必要ある?

 備瀬一家が店に来たのは八時過ぎだったんじゃないかな。キッチンにいる僕に向かって夏太朗兄さんが僕の名前を呼びながらカウンター越しに手懐けられたアシカのように手を振ってきたから、僕はカウンターに出たんだ。

「こんな遠いところまでアルバイトをしに来てるなんて偉いね。居眠り運転をするには長すぎる距離だよ」と夏太朗兄さんは言った。彼は一人でカウンターの前に立っていた。姉と利亜夢はすでにフロアの席に座っていた。

「たしかに夜の睡眠に支障をきたしてしまう距離だね」と僕は言った。「もう一生起きたくないというのなら話は別だけど」

 僕には夏太朗兄さんとゆっくり喋っている時間がなかった。ちょうど団体客の注文があって忙しかったのだ。夏太朗兄さんの注文を担当していたカウンタースタッフは、グレート・ルート・ベア[注1]みたいな高校生の娘だった。夏太朗兄さんは姉の財布ではなく、自分の財布を持っていたから、僕はそのグレート・ルート・ベア(この娘をグレート・ルート・ベアに例えるのは、グレート・ルート・ベアに失礼かもしれないが)に、精算を家族割引でするようお願いしてキッチンに戻った。

 僕が備瀬家の席へ行ったのは団体客の胃袋に詰め込んでやる大量のカーリーフライをやっつけたあとのことさ。そのとき店内には、ザ・ファット・ボーイズの“All You Can Eat”[注2]が流れていた。

「この店に就職しろよ、亜男。人類総肥満化計画の遂行にはお前の力が必要だ」と姉が言った。

 姉に言われるまでもなく、この仕事は自分に合っているのではないかと僕は思っていた。なので、僕は姉に向かって頷き、肯定を示した。解雇されたことは話さなかった。理由は、仕事中だったからだ。で、利亜夢に目をやると、彼は戦隊ヒーローにしか向けないであろう眼差しをずっと僕に送っていた。僕は彼のその眼差しに心を動かされた。僕の心はこのとき、少年の期待に応えなければならない、というヒーロー特有の感情に支配された。そういうわけで、僕は衛生のためのヘアネットと、その上にちょこんと被っていた制帽のハンチングを取った。すると、利亜夢は拍手をしながら僕の頭をまた称賛した。

 利亜夢の声と拍手の音を追いかけるように、店内にどよめきが起こった。僕の頭を見て客がざわつき出したことは当然分かっていた。以前の僕なら、レインボー・アフロになって人前に出るなんてとんでもないと思っていたはずだ。しかし、通勤問題同様、その感情も恋の魔力によってとっくに神に召されていたから、恥ずかしくもなんともなかった。カウンターにいる聖良ちゃんに目をやると、また視線がぶつかった。

「亜男くん、変な髪型やめたんだね」と夏太朗兄さんが言った。

 引っかかるところはあったが、僕の頭は夏太朗兄さんにも好評だった。それから姉に視線を向けると、彼女は相変わらずスマートフォン片手に、カメラマンに徹していた。レインボー・アフロでファストフード店の制服を身にまとっている僕を、ずっとカメラにおさめていた。

 店長にバックヤードに呼び出されたのは備瀬家が帰ったあとのことだ。生真面目な店長はその日も怠りなく、顎に新しい剃刀負けをしっかりとつくっていた。

「荻堂くん、今後店内ではハンチングを取らないで欲しいんだ。君の頭髪の量に嫉妬してこんなことを言ってるわけじゃないよ。そういった髪型の店員を働かせているのを感心しないお客さまがいるかもしれないんだ。人間は客の立場になると不寛容に輪をかけるからね」

 僕は店長のいう道理も理解できたから、剃刀に勝利したことがないであろう彼の顎を見つめながら首肯した。店長の話はこれだけではなかった。

「それから、君がお姉さんだと言っていた女性に挨拶に行ったら君とは、『家族でもなんでもない。一方的に話しかけられたんだ』と言って首を横に振られたんだ。君は赤の他人の精算を家族割引にしてくれとホールスタッフに頼んだのかい?」

 僕はこの濡れ衣を乾かすのにかなりの労力を費やした。姉がそういった悪ふざけをする人間であることを証明するため、僕はこれまでに姉から受けた虐待の数々を列挙し、店長に訴えかけた。コンピュータウイルスを感染させ僕のパソコンを再起不能にしたこと、外国人を揶揄したメッセージがプリントされたTシャツを英語の苦手な僕にまとわせ国際交流パーティーに参戦させたこと、ぐらついている乳歯を抜いてくれと頼んだら永久歯を抜かれたこと、待ち合わせ場所の地図が描かれてあったラブレターをもらったからそこへ行ってみると養豚場でブタしかいなかったこと、一生かかっても使い切れないであろう大量のコンドームを十三歳の誕生日に贈られたこと、ブタなどの家畜に装着する耳標《イヤータグ》を模したピアスを寝ている間につけられたこと(それがファーストピアスだった)、好きなアイドルの顔写真を入れていたロケットペンダントを開けるとサングラスをかけたブタの顔写真にすり替えられていたこと、お気に入りのアダルトビデオのパッケージの中身がブタの交尾ビデオにすり替えられていたこと、そして、ベーコン合同教会[注3]に強制的に入信させられたことも僕は店長に話した。店長は僕の訴えを聞き終えると、何も言わず、すっかり疲れたという素振りを見せながら店長室に帰って行った。

 そんなこんなで、人類総肥満化計画という呼び名で知られるその日の任務も僕はつつがなく終えた。僕はスタッフルームでタイムカードを押して更衣室に駆け込み、大急ぎでエアロビクスウェアに着替えた。そして、アフロコームというフォーク型の櫛をレインボー・アフロに深い恨みがあるかのようにいくども突き刺してから(アフロはそうやってこしらえるのだ)、僕は手鏡の中の自分と頷き合った。人類総肥満化計画って呼び名で、あるいは、人類総痩身化計画撲滅計画って呼び名で知られる仕事はウォーミングアップに過ぎない。本当の仕事はここからなのだ! 更衣室を出るとき正人くんが、頑張って、とエールを送ってくれた。

 僕は店の裏口のドアからスタッフ専用駐車場へ食い逃げ犯のごとく——いや、ラジカセ窃盗犯のごとく走って、ローライダーに乗り込んだ。僕がこうも慌ただしいのは、聖良ちゃんが来る前にホッピングを少しでも練習しようと考えていたからである。

 とはいえ、物事はそう都合よくいかない。都合にも都合があるってやつだ、うん。というのも、エンジンをかけ、いざ、運転席のハンドルの右下にあるハイドロスイッチを上下させてみたのだけれど、ローライダーがノーリアクションだったのである。僕はハイドロスイッチを押したり引いたり叩いたり睨みつけたりもしてみたが、それでもローライダーはノーリアクションだった。

 僕は運転席を出てトランクを開けてみた。トランクの中にハイドロスイッチを起動させるための「ハイドロスイッチスイッチ」的なものがあるのではないかと考えたのだ。すると、繋いでくださいと言わんばかりの二本の電線を見つけた。その二本の電線の先は、一本はジャック、もう一本はプラグになっていた。僕はハッとした。轟さんから受けた説明を思い出したのだ。轟さんはアースグリップとかいう電線を接続しなければハイドロスイッチは働かないと言っていた。僕はこの電線がまさにアースグリップで、これこそハイドロスイッチスイッチなのではないかと推測したのだ(事実、その電線はアースグリップだった。そいつを勝手に繋げたことを例の声帯を駆使されて轟さんから後日優しくお叱りを受けたのは言うまでもない)。

 僕は仲直りの握手をさせるようにアースグリップを繋げて、意気揚々とコックピットに戻った。とそこへ、聖良ちゃんと正人くんとグレート・ルート・ベアと店長が、僕のホッピングショーを見物しようとやって来た。

つづく


[注釈]
1.グレート・ルート・ベアとは、A&Wのマスコットキャラクター。愛称はルーティ。

2.The Fat Boys - All You Can Eat

3.ベーコン合同教会
https://unitedchurchofbacon.org

読んでくれて本当にありがとうございます!
次回「Adan No.24」は、9月8日(日)の午後にアップするので、また是非!