表紙_2

Adan #11

僕にキスをしたのは誰なのか[6/7]

 このときの荻堂亜男にとって「キス」という単語以上に心惹かれる餌はあるまい。当然ながら、僕は夏太朗兄さんの口から出たその単語のついた針に食いついた。夏太朗兄さんはその単語を口にしたことを後悔している様子だったが、僕は夏太朗兄さんに、キスがどうしたの、としつこく迫った。すると夏太朗兄さんは口を開いてくれた。渋々といった感じだったけれど。

「まだ亜利紗と付き合う前、サークル仲間たちとサラダボウルっていうボーリング場に行ったときの話なんだけど、僕はボーリングをワンゲームだけやって、それからずっとそのボーリング場のトイレの個室にこもっていたんだ。別にお腹を壊していたわけでも、ボーリングのスコアが五十を越えなかったからいじけていたってわけでもなく、実は、僕はそのボーリング場で人種差別に遭っちゃってね、うん。人種差別をするのは人間の本能に刷り込まれているものだから仕方ないし、どういった人種差別に遭ったのかを話すのは、長くなるから控えさせてもらうよ、人種差別する人を人種差別することになりそうだし。とにもかくにも、サラダボウルで人種差別に遭うなんて思ってもみなかったからショックだったよ。シーザーサラダにクルトンが入っていないときのショックとは比べものにならないほどに」夏太朗兄さんはアイスコーヒーを一口飲んで続けた。「そろそろ戻らないとサークル仲間たちと便器に迷惑がかかると思って便座から立ち上がったそのときさ。僕が入っていた個室のドアを、誰かがノックしたんだ。僕はすぐにドアを開けたんだけど、開けてびっくりしたよ。なんと、目の前に亜利紗が立っていたんだ! 僕は亜利紗だって分かった瞬間、彼女の腕を掴んで個室に引き入れた。僕がそんな行動をとったのは何故かというと、男女共用トイレじゃなかったからなんだ。誰かに見られたらまずいと思ってね。さて、亜利紗のどこに惹かれたのかって質問だったね。その質問の答えは、舌使いの巧みさ、かな。というのも、そのときトイレの個室で亜利紗といい雰囲気になって、その個室でやった彼女との初めてのキスが、すっごくよかったんだ。いま思うと人種差別されてよかったよ。人種差別もこの世界に必要なんだね。あのとき人種差別を受けていなかったら、僕と亜利紗は付き合っていなかったかもしれないし、それに、僕と亜利紗が交際に発展しなかったとなると利亜夢は存在しないわけで。こうして亜男くんと家族になれたのも、人種差別されたお陰だね」

 僕は背中に火をつけたかった。夏太朗兄さんの話を聞いて、僕の背筋が凍りついていたからだ。北斗の言った冗談を思い出して、僕は姉にキスされる画を想像してしまったのである。

 僕はその凄惨な画を押し潰したくて、両手で頭を強く押さえた。その画がなくなるのなら、頭蓋骨なんて陥没しても構わないとまで思った。

「ごめん、亜男くん!」と夏太朗兄さんが慌てた様子で僕に謝った。「弟の君には話しちゃいけない話だった! また言葉にこき使われちゃったみたいだ!」

「違うんだ」僕は頭を押さえながら首を横に振った。「亜利紗と夏太朗兄さんがどんなキスをしようが、それはどうでもいいって言うと失礼だけど、正直どうでもよくって。ただ、今キスのことで大きな問題を抱えてて、それで頭を押さえてるんだ。それと、僕らが言葉をこき使っているわけではなく、僕らの方が言葉にこき使われていることはちゃんと分かってるから謝らないで。平和とか絆とか、そういった言葉にはとりわけこき使われているのも分かってるから。まあ僕は言葉に『こき使われてあげている』って考え方を採用しているけれど」

 僕がそう言うと夏太朗兄さんは、僕でよければ話聞くよ、と言ってくれた。

 そういうわけで、僕はキスされたことと、ヒカルさんの例の呟きを聞いたことを彼に打ち明けた。すると夏太朗兄さんは、ヒカルさんにキスされたに違いないね、と僕の望んでいた言葉を惜しげもなく僕に浴びせてくれた。そしてさらに夏太朗兄さんは、ヒカルさんに嫌われたかもしれない、と嘆いた僕を優しく励ましてもくれた。彼の発した、僕も出し抜けにキスされたいなあ、という言葉は気持ち悪かったけれど、僕は夏太朗兄さんのことが好きになった(別に嫌っていたわけではない。好きでも嫌いでもなかったんだ)。

 その日、僕は夏太朗兄さんとキスの素晴らしさを夜明けまで語り合った、しらふで。


 つづく