はじめてのアルバイト_表紙

【連載小説】 Adan #22

はじめてのアルバイト〈3〉

「それ以上言うと穴が空く。利亜夢、もうそれくらいにしておけ!」

 姉が僕の頭をスマートフォンで撮影しながら息子をそう叱ったのは、半日がかりでレインボー・アフロにしてもらった僕のその頭を、利亜夢が過度に称賛し続けていたからである。あとそれから、その場には文字通り姉の飼い犬、ボストン・テリアのチャッキーもいたんだが、彼は僕のおかげで〈後ろ歩き〉という芸を覚えたようだった。

「亜男、お前最近夕方からよく出かけているようだな。女でも買いに行ってんのか?」とカメラマンがスマートフォンを置いて訊いた。

 アルバイトを始めたんだと僕が答えると、姉は驚いていた。僕の知る限り、姉はアルバイトさえしたことがない。自分と同じ怠け者の血が流れているはずの弟が労働をするなんて、信じられないことだろう。姉はたぶん漂白処理記号とかウエットクリーニング記号などにバツ印をつける仕事くらいしかできないと思う、そんな仕事があればの話だけど。アルバイトをしている理由について姉は尋ねてこなかったが、アルバイト先の名称と場所は訊かれたから僕は教えてやった。

 それはそれとして、レインボー・アフロについて少しは話しておかねばなるまい。元々のミディアム・アシンメトリー・エアリー・ヘアが伸びきっていたから、ボリュームは悪くなかった。おまけに発色もよかった。ただし、髪のダメージは気になった。完璧主義者の作家が完璧主義者で居続けることに必死で作品の完成度など気にならない、といったそのようなひょうきんな作家の気持ちにはなれなかった。髪のダメージが大きかったのは、アフロパーマとブリーチとカラーリングは一日で一度にやらないほうがいいとおばさんに言われたにもかかわらず、構わず一度にやってもらったからだ。まあそんなことよりも、読者諸賢が気になるのはレインボー・アフロの手入れについてだろう。答えるとしよう。まず、頭は普通に洗えるらしい、うん。「らしい」と言ったのは、僕は「その日」が来るまで頭を洗わなかったのだ。頭を洗わなかった理由は、せっかくの美しい虹が消えるのを恐れたためだ。頭を洗わないで大丈夫だったか、だって? 大丈夫なものか! においのほうはココナツのヘアフレグランスをかけまくっていたから大丈夫だったが(僕自身は)、そんなことより痒みが……もう痒くて痒くて、夜も眠れないほどだった。失恋した日の夜より眠れなかった。今思い出しただけでも頭が痒くなる! だからレインボー・アフロについての話はもうおしまい!

 轟《とどろき》さんが僕のローライダーに乗って僕のマンションに来たのは、明くる日の午後三時半。僕の頭を見た姫宮さんから、「雨が降らなくても虹は現れる」というハワイのことわざを教わったあとのことである(姫宮さんのそれが冗談だったと分かったのは、つい最近だ……)。

 轟さんはローライダーの販売/改造/修理/メンテナンスも請け負っている自動車屋の社長だ。彼はハンサムで、筋肉質で、背が高くて、髪型は七三分けで、セミフォーマルの服を着こなしていて、首や手にタトゥーが見え隠れしていたけど、とても物腰の柔らかい人だった。年齢は三十一だと言っていた。

 そんな轟さんには一点だけ欠点があった。そう、一点だけ。その日の一週間前、彼が車庫証明の書類を持って家に来たとき、僕は彼から渡された名刺を見て閉口せざるを得なかった。なぜって、「車屋《くるまや》ぬ黒猫《クルーマヤー》」とかいうセンスの欠片もない、正気の沙汰とは思えないショップ名だったからだ。轟さんは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」に登場する「車屋の黒」からとったと言っていたが、それは自身の駄洒落を取り繕うための後づけにしか聞こえなかった。でも轟さんの狂気、いや手抜かりは、そのショップ名だけなんだ。轟さんは仕事が出来る男だ。それは疑う余地がない。彼は比類なきバスボイスの持ち主なのだ。天からそのような声帯を与えられた人で仕事の出来ない人を僕は知らない。

「気は確かですか、荻堂さま」

 轟さんがその声帯を駆使してそう言い放ったのは、マンションに併設された自走式駐車場にやって来た僕を視界にとらえたからである。

 轟さんが僕の頭の外側だけでなく、内側まで心配するのも無理もない。車庫証明の申請書に捺印した先週の僕とは、まったく違う姿なのだから。僕は聖良ちゃんがよだれを垂らすであろう男に変身していたのさ。言うまでもなく頭はレインボー・アフロ、体はエアロビクスウェアでめかし込んでいて、そしてたまたま家にあったクラウン製の大きな古いラジカセを担いでいたってわけ。僕は五時からアルバイトがあった。納車の受け取りにサインをし、ホッピングの操作を轟さんから習ったら、ただちに出勤しなければならなかったのだ。したがって僕の気が確かか不確かか、そんなどうでもいいことを轟さんに説明している時間が僕にはなかった。先に述べたように、アルバイト先へは高速道路を利用して五十分もかかるのだ。何が言いたいのかというと、ローライダーのホッピング・メソッドを轟さんから教わる時間は三十分くらいしかなかったってことなんだ。

 僕は轟さんに、ホッピング・メソッドを指南して欲しい、と早速願い出た。すると彼はこう言った。

「承知しました。しかし、ここでは飛び跳ねた際に発生する音の跳ね返りが甚だしく、その反響音を聞いたマンションの住民の皆さまのほうが驚いて高く飛び跳ね、それこそ狂人がいるといって通報されかねません。移動しましょう」

 僕は轟さんに向かって頷いた。そして彼の背後に佇むローライダーに目をやった。

 僕はこのとき初めてローライダーと対面した。車種の選択も何もかもすべてママに——正確に言うと、ママの雇っている執事に任せていたのだ。

 僕のローライダーは“The”をいくつも冠したくなるほどの絵に描いたようなアメ車だった。一九六四年型のシボレー・インパラをカスタムしたものだった。で、その車は紅いもタルトを彷彿とさせる紫色だったのだけれど、僕はそんな車のカラーに失笑する時間も勿体ないと思った。外装は一瞥しただけで、僕はもう次の瞬間には助手席に乗り込んでいた。

 車を発進させた轟さんに、僕は沖縄南インターチェンジの手前にある空き地の場所を説明した。彼はその空き地のことを承知していた。

「荻堂さま、この度はとても良いお買い物をなされたことと存じます。この車はそのへんの高級車三台分の価値があります」

 轟さんは運転しながらローライダーについて熱く語っていた。が、僕は外装と同色のレザーベンチシートのその色に気分を害されていたから、彼の話が僕の耳穴を青信号で通過することはなかった。

 僕の指定した空き地に到着すると、轟さんはローライダーのトランクを開けて説明を始めた。

 トランクの中央部分には大きな魔法瓶みたいなステンレス素材の円筒が二つあって、一般的な車のバッテリーがその円筒の横に二組ずつ並んでいた。それらもすべてお馴染みの紫色でコーティングされていた。轟さんはトランクに搭載されたそのハイドロリクスシステムとかいう装置を指差しながら、オイル漏れがどうとか、バッテリーの充電がどうとか、アースグリップとかいう電線《コード》を接続しなければハイドロスイッチは働かないとかなんとか言っていた。とにかく、この車は油圧で車高が上がるらしかった。他にも色々説明を受けたのだけれど、頭の虹が消えてしまいそうなくらい、いや逆に頭の虹の色が増えてしまいそうなくらい、僕の頭とは一切馴染まない情報だった。大学で「九連のチャイニーズリングを340手で解く方法」という題目の講演を偉い人から聞かされたときと同じ感情を抱いた(この世に不可能はないという話だったようだが、僕にその話を理解させるのは不可能だったようだ)。

「もう説明はいいから! とにかくホッピングのやり方を教えて欲しい!」と言って僕は轟さんの説明を遮った。強い口調だったと思う。「僕には時間がないんだ! 神という見えない敵と戦ってくたくたになる欧米の誰かさんたちみたいに時間を浪費するわけにはいかない!」

「申しわけないのですが、荻堂さま」と轟さん。彼の視線は僕の頭にあった。「何の予備知識もないままこの車を運転させるわけにはいきません。それから、不可避である見える敵だけと戦っても、くたくたになるのは不可避ですよ、どうせ」

 融通が利かない石頭というのはなぜか仕事が出来る男たちのあいだで流行しているヘルメットのようなもの(本人たちは不安心から被っているのを自覚していない!)だが、僕はそのヘルメットの脱がせ方を承知している。嘘をつけばいいのさ。「後日、ちゃんと操作を教わるまで絶対に触れないから、ホッピングさせる操作装置はどこにあるのか、それだけ教えて欲しい」と僕は轟さんに言った。北風のように躍起になって吹き飛ばそうとするとかえってヘルメットを押さえてしまうから、太陽のように堂々とした態度で嘘をついて轟さんの頭を蒸らしにかかった、そういうわけ。

 僕は轟さんからホッピング操作装置の在り処を聞き出すことにまんまと成功した。「ハイドロスイッチ」と呼ばれるそれは、運転席のハンドルの右下にあった。スイッチは紙巻煙草くらいの棒状で四つ付いており、左から、前二輪、後二輪、左後輪のみ、右後輪のみ、を受け持っているらしかった。このスイッチを上げ下げすることにより車高が上がったり下がったりし、スイッチングをタイミングよく行えば車がホッピングする、と轟さんは僕に詳説した(彼が操作方法まで説明したのは、僕の口車に乗せられたからである。轟さんは本当に車が好きらしい)。

 ホッピングは後日みっちり稽古をつけてもらうことになったから、僕は轟さんのローライダー愛を聞き過ごす時間を過ごしたあと、そのローライダーを運転してアルバイト先へ向かった。轟さんとはその空き地で別れた。彼を空き地に不法投棄したわけではない。部下を迎えに来させるから心配いらないとのことだった。

 いつも乗っているフォード・GTの乗り心地がよすぎるのか、はっきり言ってローライダーの乗り心地はよくなかった。運転慣れしていないせいもあっただろうけど、出勤時刻一分前にアルバイト先のスタッフ専用駐車場に着いたときには、もうぐったりしていた。道行く車の運転手がことごとく僕を二度見し、彼らが事故を起こしてしまわないかと危惧したことも僕を疲れさせた一因だ。

 だからと言って、僕に休息は許されなかった。僕はラジカセを担いで店の裏口のドアへ走った。

「クビになったからその腹いせかい?」

 この台詞は店の裏口のドアから更衣室へ行くまでの廊下でばったり会った店長の口から放たれたものだが、僕は店長のその誤解を解かなかった。聞こえなかった振りをした。なぜなら、誤解を解く時間も気持ちもなかったからだ。店長のそばには、すでに店の制服に着替えた聖良ちゃんと正人くんが立っていた。聖良ちゃんはその澄んだ目を大きく見開いて、僕の姿を食い入るように見つめていた。僕は聖良ちゃんにもっと見つめられたいと思ったけれど、時間がなかったから彼女にウインクして更衣室へ走った。

「荻堂さん! 聖良のやつ、王子さまを見るような目で、はたまた、自分の牙が頭に向かって伸びるバビルサっていう死生観を我々に問う動物を見るような目で、荻堂さんに見惚れてましたね!」と正人くんが更衣室に入って来て興奮気味にそう言った。

「大きな牙を持ったバビルサのオスはメスにモテるらしいけど、それは己に対して厳しい牙を剥くという意識の高さの顕示に成功してるってことなんだよね」と僕はエアロビクスウェアを脱ぎ捨てながら言った。「それに、わざわざ頭に向かって伸びなきゃいけないバビルサの『牙の気持ち』も、今なら分かってあげられるよ、うん。『ありがとう』って言葉は『どういたしまして』って返事を強要する悪い言葉だからあまり使用したくないんだけど、ありがとう! 正人くん!」

 僕は急いで制服を着て更衣室を出、スタッフルームにあるタイムカードを押した。印字された時刻は『17:01』。遅刻だ。店の規定により、一時間ただ働きだ。

 つづく

読んでくれて本当にありがとうございます!
次回「Adan No.23」は、8月30日(金)の午後にアップするので、また是非!