表紙_2

Adan #10

僕にキスをしたのは誰なのか[5/7]

 僕が自宅マンションに戻ったのは、夜の十一時くらいだったと思う。

 僕は家に帰るつもりはなかった。どうすればまたヒカルさんに(できれば姉を介さずに)会えるのか、その手立てを熟考するために、僕はカントリークラブのコテージにチェックインしていたんだ(僕にキスをしたのはヒカルさんだと、僕は断定していた。ヒカルさん以外考えられなかったし、ヒカルさん以外の誰かだと考えたくもなかった)。

 僕がカントリークラブの宿泊をキャンセルしてまで家に帰ったのは、ある人に電話口で、「一晩泊めて欲しい」と泣きつかれたからだ。その人に助けを求められたのは初めてだった。

「つらいことに慣れないのは、その人の力量の問題ではなく、人はつらいことに慣れてはいけないってことだと思うんだ」と、その人は居間のカウチに腰を下ろしてからそう言った。

 備瀬夏太朗《びせなつたろう》。姉の夫であり、利亜夢の父であり、僕の義理の兄である。

 彼は僕の姉と同い年、数えで二十五だ。冬生まれの夏太朗兄さんは中背で、痩身で、肌の色が白くて、重力に従順な一重の垂れた目をしていて、縁なし眼鏡をかけている。夏太朗という名前がこんなに似合わない人はいないと思う。髪型も重たいミディアムヘアだし、服装だっていつも地味だし。印象としては、存在感のある透明人間って感じなんだ。ジョブカフェでキャリア・コンサルタントの仕事をしてるらしいけど、この人にそんな仕事が務まるとは到底思えない。就職希望者に正しい職業選択をさせる仕事なのに、彼自身の職業選択は誤っていると思う。

 僕は夏太朗兄さんに何があったのか尋ねる前に、彼に飲み物を出した。もちろん酒以外の飲み物——コカ・コーラ。

 夏太朗兄さんは酒癖が悪いんだ。彼は普段大人しいのに、酒を飲むと人格が変わる。毒舌家になる(彼のそれは北斗や姉の比じゃない!)。ヒカルさんと舌を絡ませたと思われるその日の夜に、毒太朗にまで絡まれるなんて、それはいくら日曜日といえども陽気すぎるじゃないか。

 というわけで、僕も酒を飲まずにコカ・コーラで我慢することにしたというのに、この男は、色んな意味でコカ・コーラは嫌いなんだよね、と言って、他の飲み物を僕に催促した。

 あいにく他の飲み物はアイスコーヒーと水と炭酸水と酒しかなかった。だから僕は夏太朗兄さんに、アイスコーヒーでいいかい、と尋ねた。

「コーヒーに関しては今は距離を置きたいんだ、好きだからこそ。亜男くん、僕は別に引火する飲み物でも一向に構わないよ」

 夏太朗兄さんはそう言ってキッチンの方を見た。親愛なる我が義兄は、どうしても酒を飲みたいと見えた。

 無論のこと僕は、酒は切らしてるんだ、と嘘をついた。シャンパンもビールもウイスキーもブランデーもワインもスピリッツも泡盛も——今すぐバーを開業できるくらいの酒はあったさ。でも、繰り返しになるけれど、毒太朗の相手ができるような、心に余裕のある日ではなかったんだ。分かるだろう?

 顔を背けて小さく舌打ちする、というのが僕のその嘘を聞いた瞬間の夏太朗兄さんの反応だったわけだけど、彼はそんな反応を見せたあと、嫌いだと言っていた小瓶のコカ・コーラを取って、それをこの世から一掃したいと言わんばかりに一気飲みした。そして、ざまあみやがれと言わんばかりに大きなげっぷをしたあと、距離を置きたいと言っていたアイスコーヒーを僕に頼んだ。

「ついうっかり死期を悟ってしまったような顔してるけど、何があったの?」と、僕はアイスコーヒーを注いだグラスを夏太朗兄さんの前に置いてそう尋ねた。

「夫婦喧嘩をしただけだよ。言葉は喧嘩するために発明されたものだから、口喧嘩をするのはどこまでも人道的だよね。人間は言葉で喧嘩しなければ、殺し合ってしまう生き物だから」と夏太朗兄さんは答えた。

 夏太朗兄さんは僕の姉の重たい尻に敷かれているが、それは極めて当然のことだと言える。彼の住んでいるこのマンションの部屋だって僕のママが買い与えたものだし、彼は稼ぎが少ないみたいだし。子供の名前がこの夫婦の力関係を何よりもよくあらわしていると思う。

 そんな嘆かわしい義兄に、僕はこんな質問をした。「亜利紗の尻に敷かれるなんて、僕にしてみればそれは銃弾ではなく、防弾チョッキで殴られて殺されるくらい屈辱的なことなんだけど、そもそも何で亜利紗と付き合おうと思ったの?」

 姉のようなブスで性格の悪い女と付き合うなんて(しかも結婚するなんて!)、社会通念上考えられないことである。夏太朗兄さんが僕の義兄になって五年半、僕は姉と夏太朗兄さんの馴れ初めについて尋ねたことがなかった。何故かって? 興味がないから質問する気が起きなかったのだ。この二人について僕が知っていたのは、姉が利亜夢を身ごもったから学生結婚した、ということくらい。姉夫婦は結婚式は挙げた(海を望む美しいチャペルだった。新郎新婦の見映えがよければ感動できたかもしれない)が、披露宴は執り行わなかったのさ。つまり、二人の馴れ初め話を披露宴で無理やり見聞させられるという生き地獄を、僕は体験せずに済んでいたってわけ。

 さて、そもそも何で亜利紗と付き合おうと思ったの、という僕の質問に対する彼の回答はこうだ。

「亜利紗と初めて会ったのは大学の『ただ働き蜂研究会』っていうサークルの飲み会だったんだけど、そこで友だちになって、それで、何ていうか——気づいたら付き合ってたって感じかなあ」

 夏太朗兄さんのその答えは僕を納得させるものではなかった。あんな女と「気づいたら付き合っていた」なんて、いくら逆玉に乗れるチャンスといえども、僕からすればそれは催眠術にでもかからない限りあり得ないことなのだ。だから僕はもう一歩踏み込んだ質問をした。サークル活動については話が長くなりそうなので訊かなかった。安い餌をつけた針に食いつく下魚だと思われたくもなかったし。

「亜利紗は正しい言動をしようとすることにエネルギーを使うのではなく、自分のした言動をどうすれば正義に転換できるのかってことにエネルギーを使う下等生物じゃないか。それに大学時代の亜利紗は、卵焼きもまともに作れなかったよね。少しでも魅力を感じるところがないと交際しようという気に普通ならないと思うんだけど、夏太朗兄さんはいったい亜利紗のどこに惹かれたの?」

 僕にそう訊かれた夏太朗兄さんは腕を組んで、うーん、と言いながら考え込んでいた。難しい質問であることは確かだ。

 で、僕の問いかけから十三分後のことさ。考え込んでいた夏太朗兄さんが次のような言葉を発したのは。

「キスが……」

 
 つづく