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広告を出す弁護士は広告を出さない弁護士に劣るのか?

深澤 諭史
弁護士
士業適正広告推進協議会 顧問

1 はじめに

今回は、広告を出している弁護士、士業広告に関与する広告会社は、一度は聞いたことがあるかもしれない、でも、誰もーー特に「実際に士業広告に関わっている当事者は口をつぐんで話さないテーマ」について取り上げてみたいと思います。

それは、タイトルのとおり「広告の有無と弁護士の実力(能力)に関して、まことしやかに語られている話」についてです。

弁護士広告に限らず、士業広告については、利用者であるとか、あるいは評論家、ジャーナリスト、そして同業の士業から、たびたび、このような指摘がなされます。

曰く、「広告を出している弁護士は、出さない弁護士より劣っている」というものです。理由としては、「本当に優れている弁護士であれば広告など出さなくても、おのずから依頼が集まるはずである」というものです。

つまり、「本当は優れていないからこそ、広告で顧客を集めざるを得ない」「だから、広告を出している弁護士は、そうでない(広告を出していない)弁護士に劣る」という話です。

このような話はたびたび出てきます。広告を出していない弁護士がそういう話をする、あるいは、司法修習でも、裁判官から、まことしやかに、そう語られることがあります。私も、そういう話を聞いたことはないわけではありません。

これは、本当なのでしょうか。

もちろん、違います。

ただ、違うといっても、分析的に考える必要があります。士業広告は、市民に信頼されないといけませんが、一方で、士業自身にも信頼されることが必要です。他ならぬ士業が士業広告について、誤った、それもその役割を損ねる以上のような認識を持っていては、到底、適切な広告は実施できません。

なので、ここでは、最初に「このような認識が生じる建前と実際の理由」について述べます。次に、「逆に広告を積極的に出している弁護士は、むしろその分野において優れていることは少なくない」という順番で話していきたいと思います。

2 建前論と本音としての広告を出す弁護士は劣っていると感じる理由

広告を出す弁護士について、否定的な見解を持つ理由としては、上記のとおり「本当に優れていれば、広告など出さなくても、おのずから依頼者があつまるのだから、広告を出している弁護士はそうではない、劣った弁護士である」というものです。

また、これは弁護士像の捉え方次第ですが、そもそも、弁護士(士業)たるもの、より多くの依頼を受けようとすること、つまりは「より多くの売上を上げようとすること自体が間違っている」といういささか古い考えもあるでしょう。

これらは、建前として、表に出てくる理由ですが、同業者間のSNSでのやりとりなどを見ていると、建前だけではなく、本音として、次のような理由もあるようです。

すなわち、「広告を出して、大々的に集客をしている弁護士は、まるで自分が、その分野に優れているようにアピールをしている。しかし、実際はそうではないので、誇大広告である」というものです。更に、よく読むと、「本当は自分のほうが、この広告を出している弁護士より優れている、自分を差し置いて、コイツなんかが目立っているのはケシカラン」というような、本音の中の更に深い本音も見え隠れしているように思えます。

要するに、「広告を出さないと仕事がこない弁護士は劣っている」「広告内容は自由に書けるので、実際よりも優れたと表現する誇大広告がまかりとおっている」という考えが根本にあるようです。

このような感覚的な理由の他、もう少し合理的な理由として、専門家としての「厳しい目」も大きく影響していると思います。

特に、特定の分野について、相当の経験、能力がある弁護士、そう自負している弁護士であれば、自分なりの仕事のやり方、というものがあります。広告の中に掲載されている手法や、実例が、自分の経験と異なると感じると、この広告は間違っている、と感じやすいのではないかと思います。

優れた弁護士であるほど、例外を多く経験し、それを知っています。そして、そういう例外こそが、弁護士としての実力の見せ所でもあります。

一方で、広告は、一般的な例や手法を紹介することが通常です。そうなると、熟練した弁護士からすると、「そう簡単にいかないこともあるはずだ。○○や××ということもあるはずだ。それに触れないのはケシカラン」と思うこともあり得ます。

まとめると、建前としては「広告を出す弁護士は能力不足」か、「能力不足なのに広告を出すのがよくない」か、あるいは「難しい例外に触れないのが誤りである」ということが、広告を出す弁護士への批判の理由の中心ではないでしょうか。

しかし、これらの議論は、広告という限られた時間、分量、そして受け手の理解の範囲という制限があることを看過しています。例外に触れないのが問題であれば、具体的に、「その例外に広告の時点で触れる必要性がどこにあるのか、どの程度あるのか」「広告の効果を妨げずにどこまでバランスがとれるか」といった点についてより具体的な議論をするべきです。

3 広告こそは優れた弁護士への登龍門

弁護士にとって広告は、依頼を集め、売上を上げるためだけのものではありません。弁護士にとって広告は、自分の実力を養うための手段でもあります。

今、各分野で、第一人者であるといわれている弁護士は多数います。しかし、どんな弁護士も、最初から今のような実力を備えていた訳ではありません。

専門書をひもとくのも大事ですが、実務家にとって実力をつけるには、実践が何よりも大事です。そして、実践をするためには、事件を取り扱うーーつまり、依頼を受けなければなりません。

もちろん、最初から、多数の事件を受任する事務所に所属し、そこで多数の事件を受任できるにこしたことはありません。しかし、そうそう都合良い立場にある人ばかりではないでしょう。

その分野で有名になっており、紹介が紹介を呼び、黙っていても沢山依頼が舞い込むのであれば、沢山の事件を受任して研鑽することができます。しかし、その分野で有名になるほどの実力を蓄えるには、やはり沢山受任をする必要があります。そうすると、新人が特定分野について高度な経験を獲得するのは、まさに「ニワトリが先か、タマゴが先か」というはなしになり、どうしようもない、ということになります。

そうすると、最初は、広告を使って依頼を集めるほかありません。また、広告であれば、どれでも自分が目指す専門にターゲットをあわせることができます。

僭越ながら、かくいう私も、インターネット上の表現トラブルについて、相当多数の案件を扱い、専門家向けの書籍等も出しているところですが、もちろん、最初から、今のようであったわけではありません。この分野について、積極的に広告を出すなどして、経験を積んできたという過去があります。

このように、今は、弁護士については広告が解禁されているので、こうやって、自分の希望する分野の依頼を集めて、専門特化をすることができるようになりました。

なお、余談ですが、聞くところによると、今、刑事弁護の分野で顕著な成果を上げている弁護士の中には、国選刑事弁護を多数受任して研鑽を積んできた過去があるそうです。それにより、今日の実績に至る実力を身につけたのではないでしょうか。

同様に、広告も、弁護士が自分の希望する分野について、実力と実績を身につける登龍門の役割を果たしているといえます。自分が注力する分野を設定して、積極的に受任をしている(しようとしている)弁護士を、他より劣ると評価するのはフェアーではないでしょう。

4 士業の職責が重要であるからこそ、広告を出すことも同じくらい重要なはず

弁護士をはじめとする士業の業務の重要性については、あえていうまでもないでしょう。厳格な資格制度があるのも、業務独占が認められているのも、その重要性や公共性によるものです。

士業の業務が重要であるのならば、その広告もまた重要です。士業の仕事には専門性があり、需要者たる市民は、広告を見ないと、利用のタイミングや方法、そもそも利用できることにも気がつくことができないからです。

また、士業広告には市民を啓蒙するという効果もあります。法律や法制度についての知識、それにより問題が解決できる可能性を示すことで、「泣き寝入り」や、苦しいままの状態が放置されることを防ぐことができます。

借金問題の解決に関する広告が多数出てきたことにより、借金問題で一家離散や自死等の悲惨な事態はずいぶん減ったのではないでしょうか。また、残業代請求の広告であれば、労働者からすれば、長時間労働について、法的な救済を受けることができること、それを知ることができます。使用者側の立場から考えても、このような広告があるのであれば、長時間労働は避けるようになるでしょう。

遺言書の作成や相続登記を推奨する広告についても同様です。これで、将来の骨肉の争いを避けることができれば、社会の平和に貢献したと評価できるのではないでしょうか。

士業広告について批判的な言説の中には、「ビジネス」「金儲け」といったキーワードを安易に士業広告と結びつけて批判するものがあります。そもそも、「ビジネス」と「金儲け」のなにが問題なのか、という点はさておくとしても、このような批判的な言説は、士業の業務の高度の専門性や公益性に依拠しているといえます。こういう専門的公益性のある仕事について、「広告をするのは、ふさわしくなく、ケシカラン、いかがなものか」というわけです。

しかし、これまで見てきたとおり、「士業の仕事に公益性があるから広告が駄目なのではない」「士業の仕事に公益性があるからこそ、士業広告はとても大事である」、そう考えるべきではないでしょうか。

5 問題のある広告や、問題のある士業が存在するのは間違いない

士業広告が非常に重要である、としても、もちろん、それと問題のある士業広告が存在することは両立します。

繰り返し強調していることですが、士業というのは専門性が高いだけでは無くて、実際の案件処理、つまり実務の細かい部分などは、あまり専門家以外に広く知られていません。依頼者たる市民と士業との情報格差が構造的に非常に大きいため、悪質な広告が簡単に「成功」してしまう、という悩ましい実情があります。

過日、当協会から見解を表明した「国際ロマンス詐欺」の被害回復に関する広告は、まさにその典型です。法律実務家は、法的な権利の存否と、それの証明の難易度、さらに実現(執行)の可能性、いずれもそれぞれ別の問題として立ちはだかることを熟知しています。

しかし、それを知らない被害者、それも、大きな被害に遭って、困惑して冷静な判断が難しくなっている人を対象に、見込みのない案件に大量の報酬を請求することは、誤導であり、あるいは誇大な広告であるとして、非難に値するといえるでしょう。

ただ、ここでの問題は、広告という制度そのものに問題があるわけではありません。問題ある広告を理由に、広告そのものを忌避することは間違いです。

医療ミスが発生すれば、医師制度は廃止するべきでしょうか、横領する弁護士がいれば、弁護士制度も廃止するべきでしょうか。単に、これは坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、といった話であって、とても士業についてなされるべき論理的かつ建設的な議論とはほど遠いものです。

士業広告の問題点の指摘を厳しく行うことは、大事なことです。しかし、自分や自分の知っている弁護士・士業とは違うからといって、そこから抽象的に「ケシカラン」「いかがなものか」と否定していては、士業の発展は望めないばかりか、市民の需要にも応えることはできません。

中には、弁護士が広告を出すだけで「非弁」といわれることすらありますが(こういう言説はSNSでよく目にします)、両者は別物です。広告が非弁の道具にされることはありますが、両者は不可分と言うことではありません。お金を預かる仕事をする弁護士は横領弁護士だ、という程度には論理の飛躍があると思います。

広告の問題は、ともすれば、単に自分とは違うことから生じる忌避感や、活躍している同業者への嫉妬からくる攻撃を、正当化してしまうリスクもあります。相互に信義を重んじるべき士業として、このような言説があることは、実に残念なことです。

6 まとめ

士業広告は、能力の無い弁護士の補助輪ではなくて、目指す方向に向かうための、0からでもスタートを応援できるロケット推進器のようなものだと思います。

広告を出しているから、出していないから、といって一定の判断をするのではなく、広告を出すことで、何を得ようとし、得られているのか。印象論では無く分析的に理解することが大事だと思います。

それが、今後の士業の発展に必要なことではないでしょうか。

以上


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