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映画「女子高生に殺されたい」感想

※ネタバレしかしてません。



 
オープニングがめっちゃ好き
 なかなか観に行く機会に恵まれず、ようやく、どうにか観に行けたあの日。私はスクリーンの前で、ドキドキと高鳴る心臓を抱えていました。
 原作未読、少しの宣伝だけ齧りなるべく他の方の感想も目に入れないまま臨んだ初鑑賞。
録画映像の中の東山春人(田中圭)の呟き、一筋の涙から、桜吹雪の中で彼が振り返るまでのオープニング。響き渡る音響とその画面の美しさ。「自信作どころじゃない」映画は、傑作の予感しかしない始まり方でした。 
 
生徒たちの奥行きよ
 主演田中圭を語る前に、生徒たちについて語らせて下さい。
 この映画の主演は田中圭ですが、生徒の役の皆さんも本当に素晴らしかった。それぞれの役が、この子しかいなかったんじゃないってくらいハマってて、みんな可愛くてカッコいいのに現役高校生感がリアルで、それぞれが自分の役にしっかり向き合って創りあげたんだろうなあと、何様目線だよって話ですがそんな風に感じました。
 佐々木真帆役の南沙良さんについては、ドラゴン桜(ドラマ)で知ってはいましたが、そのときはキャピキャピした女子高生役だったので今回の配役はどんなふうなんだろうと期待していました。期待以上でした。常に一緒にいる小杉あおい(河合優実)のことをどんなふうに表現していいか難しいのですが(不思議な力というのも違う、生まれ持った才能も違う。うーん)、感覚が過敏で、周りと感じる世界の範囲が違う子でしたよね。そんなあおいはなかなか掴みづらくて観ながらじっくりと観察してました。だけどそのあおいの傍にいた真帆の方が、よっぽど掴めなくて奥が見えないことに気付かされます。そしてその謎が劇中で徐々に解き明かされていくのです。壮絶な過去を抱えながらも、“真帆”自身はそれを知らない。気付いていない。磨りガラス越しのように見える真帆の存在が映画が進む中でだんだんクリアになっていくのが、大きな見どころのひとつだったように思います。
 京子(莉子)、愛佳(茅島みずき)が東山に対してそれぞれ気持ちが傾くシーンがとてもわかりやすくて、ほんと、東山コノヤロウでした。好きになっちゃうよねわかる。すべてが東山の目論み通りに動きながらも、純粋な恋心を抱く二人の気持ちがまっさらというコントラストがとても良かった。そして川原(細田佳央太)も、ただまっすぐに真帆が好きで高校生らしい緩さがとてもよかった(語彙力)。五月(大島優子)が言った、「彼女はあなたのまっすぐさを必要としてる」って本当だよなあ。きっと川原の存在は、どういう形かはわからないけどこれからの真帆にとって大事なものになると思います。そのままの君でいて。
 
 この後は、田中圭を中心に好き勝手に語ります。ファンとしての主観もりもりだと思いますよろしくお願いいたします。
 
変態なんかじゃない
 主人公の東山春人。とても、とても最低でした。善良な教師のフリをして生徒たちに近付き、複数人の女生徒の心を欺き弄び、自分の欲望のためにその時間を消費させたと言っても過言ではないでしょう。真帆に対して容疑がかからないようにと配慮しているように見せかけて、結局自分のために彼女の心に多大な負荷をかけ、下手したら一生の傷を負わせるかもしれなかったことを実行したんです。真帆のことは想っているのに、カオルとキャサリンのことは道具のように使い捨てようとした挙句、自分勝手に執着すらして見せて、理解しがたい最低の人間でした。
 でもね。
 もうほんとにこれだけは伝えておくんですけど、私はけっして、こういう犯罪や障害病気諸々を肯定したり下げたりしようとは思っていません。ただ物語として、フィクションとして鑑賞した中でどうしようもなく感じてしまったことをここに書きます。
 私には、東山春人が最低の人間であると認識したのと同時に、同じくらいの愛しさも感じてしまいました。「女子高生に殺されたい」というタイトルから、フィクションであることはもちろん前提として、きっと理解しえない思考の人間を田中圭が演じるのだろうと、ぼんやりとした先入観を抱きながら鑑賞しました。これは今、観終えて振り返ったときの気付きです。鑑賞前はそんな先入観を抱いている意識すらありませんでした。ただ、観ているうちにそれは微かな違和感となって形を成していき、それが先入観だったことに気が付きました。
 理解しえない、端的に言ってしまえば「変態」の役だと、そう思っていたのにそうは思えませんでした。東山から真帆が引き離され、川原に押さえつけられたとき、川原は東山に向かって「大人しくしろ変態!」と叫びます。東山も言い返します。「変態じゃない! 殺されたいだけだ。(中略)女子高生じゃなきゃダメだ!」「やっぱただの変態じゃねえか!」この部分、セリフだけ文字で起こすとまるでギャグだし、もしかしたらギャグシーン? という可能性も否定できないのですが、それでも私はここで胸が強く痛みました。「東山春人は変態じゃない!」と擁護してあげたい気持ちにすらなっていました。わかる。わかります。もちろん変態だと思うのもわかる。その目線も感情もわかるんです。だけど、東山春人は私の中では変態にはならなかったんです。
 彼は物語の中で葛藤していました。「可愛い女の子に殺されたいと思った」「こんなのは変態だ」「自分の欲望に苦しんでいた」「彼女の前では殺されたい願望は全く湧かない」「肉体の快楽に溺れる普通の男だった」「この欲望をコントロールできる。そう思っていた」
 そんなふうに、自分の嗜好を自覚して、さらに自らを客観的に見つめその分野を学び、世の中に溶け込もうとした東山の葛藤を観て、でもキャサリンと出会ってからの彼がだんだん、ぐにゃぐにゃと壊れていくのがわかりました。それからラストまで、ずっと背景で彼の抱える叫びと苦しみ、そして欲望のためのステップをクリアしていく悦びが激しく共鳴しながら鳴り響いている気がしました。バクバクと止まらない心臓の音は、私の中でも鳴っていました。
 真帆との、キャサリンとの出会いは、彼の中で保っていた一線を軽々と超えてしまうくらいの奇跡的なものだったのでしょう。彼女と出逢って、彼女に殺されることだけを目的に過ごし、そのために邪魔なものを淡々と処理していく。それがさらりと東山のナレーション語られて、人はこんなふうに壊れていくのだと知りました。それでもまだ、東山春人の狂気の奥のものにちゃんと気が付けていないまま観ていました。
 彼の中で展開されていた自分殺害計画。まるで物語のように生徒たちがキャスティングされていく中で、真帆の中にキャサリンはまだ生きているのかということを確かめるためだけに犬を飼い、ジョンと名前をつけて可愛がり、躾して、キャサリンに殺させました。それを見て東山は歓喜します。「キャサリン、やっぱり生きていたんだね」この瞬間も、このすぐあとも、そしてその後も、東山の中にジョンに対してのコメントは一切ありません。だけど、物語を打ち込むところで一文だけ確認できました。
「ジョンの断末魔。次は、僕の番だ。」
 東山は、やはりジョンの死を嘆いてなどいませんでした。むしろジョンに対しての羨望すら窺えました。僕も早く、あんなふうに殺されたい。早くキャサリンに殺されたい。『ジョンが死んだ』ということに対する悲しみは一片も見えないのがとても恐ろしくて、とても悲しくもありました。
 東山が語った幼少期のエピソード。おもちゃ屋の前に置いて行かれて、「捨てられた」のだと悲しんでいた頃の彼は、もし飼っている犬がいて亡くなってしまったら、純粋に悲しめる子だったと思うんです。その子はもういなくなってしまった。いや、その東山もいるのかもしれません。普段ジョンを可愛がり、躾して、共に過ごしていた東山は、ただジョンが亡くなってしまったら悲しんだのかもしれません。自分の欲望、計画にジョンをキャスティングし、その通りに死んだジョンは、東山の中でなるべくしてなった死の形。「ジョンが死んだ」ではなく、「自分を殺すための物語の一部にジョンの死があった」。それは東山にとって当然の流れで、脚本で、自分が殺されるためには必要だった。わかってはいても、少しでも正常な神経が残っていれば心の一部が悲しむはずなんです。でもそれがなかった東山は、やはり壊れていたのでしょう。
 東山は崖から落とされたり、眠っている間に死ぬのは嫌だと言っていましたが、ちゃんと言えば首を絞めて殺されたかった様子でした。その理由は作中で明確に描かれていたように思えました。“母のお腹の中で臍の緒が首に絡んで死にかけたことがある。”その話を母から聞かされたという東山にとって、きっとそれが愛されていたと一番強く感じる記憶だったのかもしれないと思いました。
「あなたが生まれるとき、臍の緒が首に絡んで死にかけたの。でもどうにか無事に産まれてくれた」
 どんなふうに母から語られたのかはわかりませんが、それをぼんやり思い出した気がすると話していた東山は、その遠く微かな記憶の中で、母が自分を必死で呼ぶ声を聞いたのかもしれません。死なないで、生きて、生まれてきてと、強く強く自分の存在を望んでもらった遠い記憶。一番大きな愛を貰ったときの状態で死にたいのだと、深層心理で思っていたのかもしれません。そして同時に、その当時きっと懸命に生きようと藻掻いたはずの、まだ胎児だった東山の生への執着。五月が言った「自分のことを愛する誰かが自分の欲望を止めてくれるかもしれない。そう願ってる」は、あのとき東山の心を真には打たなかっように見えましたが、それが真実だったようにも思えるんです。「殺して欲しい」という欲望と同じ大きさで響いていたかもしれない「助けて欲しい」。東山が抱えてきた苦悩が想像されて、痛々しくてたまりません。
 首を絞められたときに東山が感じるであろう苦しさと、痺れるような多幸感。本能で生きようと足掻きながらも抗えず、だんだんと霞みがかる意識の中で聞くその心臓の音は自分のものでしょうか。それともお腹の中で聞いた母のものでしょうか。その音が大きくなっていき、明るい世界が遠ざかっていく。それに酔うように逝けたらと願う東山のことを、私は変態だと吐き捨てることが出来ませんでした。
 
彼らの行く末
 9年も前から綿密に練られていた東山の計画は、五月たちによって阻止されます。最後、「キャサリン! キャサリン!」と形振り舞わずに縋ろうとする東山の姿が憐れて、悲しくて仕方ありませんでした。五月が東山を通報しなかったのは、真帆のためを思ってという理由ももちろんある中で、自分のためでもあったのかもしれません。「以前のあなたを生き返らせることが、あなたの苦悩に気付けなかった私の贖罪」だと呟いていた五月。その「以前」がいつなのかを少し考えました。まだ自らの嗜好にはっきりと気が付く前の東山なのか、それともその嗜好に気付き計画を進めていた東山なのか。結局答えは出ませんでしたが、五月の「あなたの病気は私が治す。時間をかけて」という言葉は、あのときだけのものではなく本心だったということはわかります。東山に言った「自分のことを愛する誰か」とは、五月自身のことで、「私があなたを救う」とそう言いたかったのだと解釈しています。最後に記憶を取り戻したかもしれない東山は五月とどんな心理戦をするのか(東山は最低なので、川原に言ったように「おまえじゃだめだ。女子高生じゃないとだめだ」と言ってしまいそうで怖い)、またキャサリンに縋るのか。それとも別にターゲットを据えるのか。あるいは。その先を想像するために、またじっくりと東山の計画、感情の揺れ、表情その他諸々を細かく、満遍なく観なおしたい気持ちになりました。これはたぶん終わりはないです。何度も観て、何度もはっとさせられる箇所があるであろう観応えありすぎる作品でした。
 

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