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人間中心のデザインでいいんでしたっけ?02:クリティカルゾーン展@ZKM 前編

Ryuichi Nambu

このnoteは「人間中心のデザインでいいんでしたっけ?01:アクタント マッピング キャンバス」という記事の続編です。

今回はドイツで開催されている企画展「クリティカルゾーン:地球的ポリティクスのための観測所」をとりあげる。前回参照したアクター・ネットワーク・セオリーをデザインにつなげる検討を一歩先に進めてみたい。デザインが頼りにしてきた人間中心のアプローチをアップデートするという目的は前noteと共通している。自然環境にとって優しい社会がデザインできるとしたら、翻ってその環境からいつも恩恵をうけている人間にとっても豊かで優しい社会になるにちがいない。そんな思いで思考実験をつづけてみる。

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企画展のサイトはこちら

書いていたら長くなってしまったので前編、後編としてわけることになった。前編では展示の背景と概要、後編では具体的な展示内容を紹介する。

なぜこのエキシビションを紹介するのか

アクター・ネットワーク・セオリー(以下、ANT )の一番の特徴は、人間だけでなく、自然や動物、あるいは人工物も対等なアクターとして扱いながらモノゴトを分析する点にあった。枠組みは理解できたし、環境中心デザインという考え方につなぐこともできた。自然環境が大事だとされる時代に求められるデザインの可能性を仄めかしてくれるとても魅力的なパースペクティブだ。

しかし、実践が重視されるデザインという領域では、常に具体性が要求される(と僕は考えている)。この手の抽象的なコンセプトには、じゃあ、実際に何ができるの?なにを創ることができるの?という実装フェーズへの疑問が浮かんでくることが多々ある。「考え方はわかった、さあデザインしようぜ」とデスクに座って目の前の対象に向き合うと、抽象と具体がつながらずに、つい手が止まってしまうというのはありがちなことだ。

ドイツ南西部にあるメディア芸術センター、通称「ZKM」で開催されている企画展「クリティカルゾーン:地球的ポリティクスのための観測所」には、そういった疑問に答えるヒントが隠されている。ANTを提唱した立役者のひとり、フランスの哲学者であり人類学者であるブルーノ・ラトゥールがメインキュレーターとして参画し、彼の思想と具体的な表現とをつなぐ実験的な作品群が展開されているからだ。

展示概要を読んでみると、この展示は「Thought Exhibition」とある。直訳すると「思考展示」だ。「思考実験」という言葉はよく耳にするけれど、思考という抽象的なものを、見たり触れたりできるような展示物に落とし込むという発想はとてもおもしろい。

新しい思想がリアルなオブジェクトと結びつくとき、アートが一番初期の実験フィールドになることが多い。古い例でいえば、パリのシチュアシオニストたちの活動がギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』やアンリ・ルフェーブルの『日常生活批判』と連動していたし、新しい例でいえば、昨年度、東京都現代美術館でのオラファー・エリアソンのエキシビションで、それこそラトゥールの考え方をいち早く取り入れた『クリティカルゾーンの記憶』という作品が展示されていた。

あるいは、デザイン領域でいえば、想像上のオルタナティブな未来を具体的なカタチとして表現し、人々に議論のきっかけをもたらそうとするスペキュラティブデザインというアプローチが、「思考展示」という枠組みと密接に関係している。

この純粋なアートでも哲学でもない、なんとなくデザインとも共通する雰囲気をまとった展示。抽象的なコンセプトと具体的なプラクティスが交わる「思考展示」のプロセスを参照することで、これまで検討してきたラトゥールのパースペクティブを自分たちのデザインプラクティスに、より具体的に取り入れるためのヒントを探りたいと考えている。

クリティカルゾーン展の概要

まずは展示の概要を、いくつかのポイントともに把握しよう。

危機的な状況にある地球や自然環境にさまざまな方策で対処するために、人間以外のあらゆる生命体とともに共存するための新たな世界観、フレームワークを模索する、というのがこの展示の主要なテーマだ。

後ほど詳しく説明するが、クリティカルゾーンとは僕たちが立っている土壌やそれを包む大気、つまり地球の表面の薄い膜のような領域のことを指す。人間を含めてあらゆる生命が依存しているにも関わらず、人は宇宙に目を凝らすばかりで、このエリアにはあまり注意と敬意を払ってこなかった。

この展示はそのクリティカルゾーンの観測所という体をとっている。そこでは、いままさに集中治療室入りしたクリティカルゾーンの状態をあらゆる角度から観察し、人間を中心とした社会ではなく、再び地球的(HumanityとEarthlyという単語で対比されている)な視点で社会を形成するべく、さまざまな試行錯誤がおこなわれている。来館者は、この観測所に招かれた探索者といった体で、フィールドブックを片手に様々な作品を楽しむことができる。

ポイント1:多様な参加者、学際的なラボ
参加アーティストで目についたのは、以前から気になっていたフォレンジックアーキテクチャーだ。ターナー賞にノミネートされたこともあるアートコレクティブで、建築家、ソフトウェア開発者、映画製作者、ジャーナリスト、アーティスト、科学者、弁護士など多様なメンバーで構成されている。

また、アート界隈だけでなく、例えばダナ・ハラウェイという思想家がレクチャーを催したり、ティモシー・レントンなどの科学者、そして森に関する美しい小説が思い出されるリチャード・パワーズが寄稿したりと学際性に富んでいる。

なによりもこの展示を率いるのが、先に挙げたブルーノ・ラトゥールと、ZKM所長でありヨーロッパメディアアート界の中心人物であるピーター・ヴァイベルの二人の雄であることが一番の注目ポイントだ。思考展示という名が示すように、単にアーティストが参加するいわゆる「アート」の展示ではなく、領域を横断したラボという意味合いが強く伝わってくる。

ポイント2:アート展ではなくリアルな観測所
観測所という体は美術館の中のフィクションではない、実際に美術館から150kmほど離れた森の中に設置された観測所と連携し、そこで観測されたデータをリアルタイムで見ることができる。森を訪れた観光客の観る風景とはまったくことなり、水の循環、森林の進化、風化の過程、雨のパターンなど、景観を構成するいくつかの現象が個別にビジュアル化され、科学者がどのようにクリティカルゾーンを追っているか、追体験するできるものとなっている。

例えば、人間というアクターが土壌にどのような行為をしているか、土壌が人間の行為によってどう反応し、どうフィードバックを返してくるか、敏感に反応するクリティカルゾーン体験を通して、土地の感触を実感し、自分たちも大気や、生態系といった自然のサイクルの一部であることを知ることができる。自分たちが地球を変えているだけでなく、地球から変えられているというストーリーを体感できるインタラクティブな展示構成になっている。

ポイント3:デジタルでだいたい閲覧できる
幸いにも、といっていいかどうかわからないが、東京にいながらにして海外の美術館を体験できる時代になった。この展示も、実空間での作品展示とオンラインプログラムが組み合わされて開催されている。

「クリティカル ゾーン デジタル」というサイトでは、殆どの作品をオンラインで閲覧することができるし、美術館に入る際に手渡されるフィールドブックもPDFでダウンロードすることが可能だ。さらにテレストリアルユニバーシティと題された、展示と連動したレクチャーシリーズも動画で観ることができる。タイトルを見るかぎり大学のオンライン講義以上の充実した内容のようだ。

もちろん実際の空間に足をはこび、自分自身で体験することの重要性に勝るわけではない。この種の展示に関しては、頭だけでなく身体的な理解が一番の醍醐味であることは変わらない。

ただ、この展示の価値は美術館という空間に閉じない広がりを持っていることも事実だ。僕たち個人の視点に再検討を促し、身の回りで起きている危機的状況への向き合い方を変容させることが主要な目的になっているからだ。クリティカルゾーンは東京にもある。ぜひフィールドブックを片手にヴァーチャル散策し、自らの日常につなげてみて欲しい。

クリティカルゾーンってなんだろう?
:地動説以来の転回?

そもそもタイトルにある「クリティカルゾーン」とはなんなのだろうか。先に書いたようにクリティカルゾーンとは、大気と樹木の先端から土壌、地下水の底まで、つまり丸い地球の表面、わずか数キロメートル圏のことを指す。地球上のあらゆる生物はこの範囲で活動し、地球の地質を変化させてきた。この数世紀の間には人類がドラスティックに地質を変えてしまい、このエリアが危機的状況に陥っているといわれている。最近話題になっているアントロポセン(人新世)の議論とも関連する用語だ。

もともとは堆積学者であるゲイル・アシュリーによって1990年代後半に提唱された用語だが、ラトゥールにとってそれは、地動説以来の革新的な地球像の転回ということにつながるらしい。現代の科学者たちは、ガリレオが望遠鏡と月のスケッチから自説を証明したように、新しい観測技術を用いて、「クリティカルゾーン」と呼ばれる新しい地球像を描き出そうとしている、と。

普段の生活で考えてみよう。僕たちが学校で習ってきた地球像は、過去の人達がひたすら宇宙を眺めながら形成されてきた地球像だ。近代というプロジェクトは、この惑星の限界を気にすることなく、拡大と成長を目指して飛行してきた。僕たちが日常で営んでいる経済活動や消費行動も、この地球像がベースになっている。「グローバル化」という言葉にも含まれる、いわゆる青くて丸い地球像だ。

しかし、気候変動への危機感が高まるにつれ、人々の意識が自分たちの足元に向かいはじめた。展覧会序文によれば、

この危機的状況を軟着陸させるためには、社会の中心が人類だけではなく、再び「Earthly(地球的な)」ものにならなければならないことに、科学者やアーティスト、アクティビスト、政治家、そして市民たちは、気づいている・・・政治は、もはや人間が自分自身のためだけに意思決定を行うようなものではなく、自然環境に配慮した非常に複雑な事業になっている。さまざまな生命にとって共通のプラットフォームをつくるためには、生命というものに対する新しいタイプの関心と配慮をもった新しいタイプのシチズンシップが必要だ。

とされている。

そこで必要となるのが、地球の新しい捉え方「クリティカルゾーン」だ。空ではなく足元の土を見てみると、望遠鏡で遠い宇宙を観測するのでは捉えきれなかった生命のアクターネットワークが広がっている。僕たちはそのネットワークの中で、相互に影響を与えあいながら暮らしを営んでいる。にもかかわらず、そこで何がおきているのか、自分たちの行動が他の生物や生態系にどう影響を与え、どのように影響を受けているのか、その詳細を把握できているとは言い難い。この足元の土とともに社会を形成するために「クリティカルゾーン」という地球像が導入された。

かつて天動説を否定し地動説を唱えた者たちが迫害されたことからもわかるように、地球像というのは単に科学的見地ではなく、社会や経済、宗教のベースになる世界観といってもいい。「クリティカルゾーン」という新しい地球像をベースにして、政治や文化を再構成することで、近代がもたらした危機的状況を緩和することができるのではないか。「クリティカルゾーン」はそのような視点のシフト、社会のトランスフォーメーションを促す概念として提案されている。

ZKMでの展示は、地球の新しい捉え方をデモンストレートする公開実験が目指されている。クリティカルゾーンという概念を使うことによって、僕たちの視点を新しい地球像へと転換し、自然保護として理解されがちな「エコロジー」から、むしろ「生命体の政治」と呼ぶべきものへと舞台をシフトさせることが目論まれている。

後編につづく

さて、駆け足だが展示の背景はだいたい把握できたように思う。ラトゥールの主張する新しい地球像が妥当かどうか、それを信奉するかどうかはさておき、スケールの大きな転回が目論まれていて楽しい。デザインという文脈から見れば、未来の物語を想定して現実の一歩を踏み出すためのナラティブストラテジーやデザインフィクション、あるいは未来のオルタナティブを提案するスペキュラティブデザインとも関連した実践とも読みとれる。それらのアプローチのかなり壮大なアウトプットだと思うと、デザイナーにとってもワクワクする展示なのではないだろうか。観測所をデザインラボとして想像しながら情報散策すると、具体的なデザインプラクティスつながるヒントが見えてきそうだ。

後編ではいくつか個別に展示作品を紹介したい。

お楽しみに!

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