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「生きる意味」を見付ける第一歩は、呪われながら生きる覚悟を決めること!?

どうも、毒親サバイバーのアコナイトです!

突然ですが、あなたの生きる意味は何ですか?

私は物心ついた頃から生きる意味も価値も全く分らないので、さっさと消えたいなと思っていました。
でも、死ぬ勇気もないし、意味のない「生」なら、「死」もまた無意味。

薄っぺらすぎて何も言っていないのと同じ「進次郎構文」のような人生なら、もう少し厚みを持たせても良いかと思い始めた最近です。

「産まなければ良かった」と言われて、陽キャになるわけないよな

うつ病で長年苦しんでいた友だちが、「死にたいけど、お母さんとお父さんが悲しむから、とりあえず両親が生きているうちは生きてみる」と言っていた。
それを聞いて、私が喉から手が出るほど欲しい「生きる意味」を持っていても死にたくなるんだな…と不思議な気持ちになった。
(そう考えると、愛されていようがいまいが、ヒトっていう生き物はたまに死にたくなるのか…くらいに大雑把に捉えていても良さそうだ。愛されなかった人が全員死にたいと思う訳でもないだろうし。)

私が死にたい理由は色々あるが、明確に答えられる理由の一つに、母親から「産まなければ良かった」と言われていたことが発端な気がしている。

母親と仲良くない私にお説教を垂らしてきた友人に、「産まなければ良かったと言ってくる母親とも仲良くしないといけない?」と言い返したら泣かれてしまったことがある。
その子は、申し訳ないというより、私のことが可哀そうで泣いたようだ。

「言われた時のショックを思ったら…可哀そうで…」みたいに言っていたけれど、初めて言われた時の頭を殴られたようなショックは意外と思い出せない。
どちらかと言うと日常的に言われていた感じで、ちょっとずつ私に無価値感を植え付けていった感じだ。

母が私を産んだ歳を超えてから、「そんなこと言う方が頭がイカれている」と自然と思えるようになった。
でも、頭で「理解」をしても、染みついた思考のクセはなかなか抜けていかない。

30歳を超えた今でも、自分が無価値だと思ってしまう「生きづらさ」は続いている。
もう母とは随分と会っていないけれど、未だに夢で幼少期の辛い情景にうなされることもある。
本当に毒母とは「呪い」みたいなものだ。

バグだらけのゲームを、それでも攻略していくしかない

「人は誰しも死ぬ」というのは真実だが、その終わりが何年後か分からないのは不便だなと思う。
でもこれは人間だけじゃないからしょうがない。

父の歳まで生きると仮定すると、あと30年弱の人生だが、祖母の歳までと仮定すると60年もある…。
明日車に轢かれて死ぬ可能性も0ではないが、恐らく何千回も退屈な日常を繰り返す可能性の方が大きそうだ。

ひろゆきが、リスナーの「なんで人間は生きているんですか?」という問いに対して、「意味は特にありません。地球の熱電動です。」と答えていて笑ったが、宇宙規模で考えたら全くその通りなのだろう。
夜空の星を見上げて、「自分をちっぽけだ」と感じてちょっと楽になった…みたいなことは、多分みんなあると思うし。
(自分を含めた全てが無価値だと思えるから安心するのかも知れない。自分だけ無価値なのは悲しいから。)

でも問題なのは、私たちの目の前に広がっているのが、宇宙じゃなくて「日常」であることだ。
宇宙を感じて自分のちっぱけさを知ったところで、すぐに現実に引き戻される。
「世界にはご飯も食べられないような国がたくさんあるんだから―」と言われたところでモヤッとするのは、なにか論点をすり替えられているような気がするからだと思う。

「妖怪論点ずらし」はそこら中にいる。
私からしたら、魚に「陸では火事が起こったりして大変なんだから…」と言っているように聞こえるような話が溢れている。
魚は水の中が全てなのに…。

魚といえば、私はスキューバダイビングが好きなのだが、なんで好きかというと、“魚を観るのが好き”だからだ。
魚は、自分の生きる意味など考えずに淡々と生きている姿が本当に美しいと思う。

私もそう生きたいのに出来ないのは、脳が発達した人間だからしょうがないのか…と思うと同時に、「人間が完全体だと錯覚してはいけないな」とも思う。

私の好きな成田悠輔先生が、「人間が生きる意味を問うてしまうのは、言葉を持った呪いみたいなもの」と言っていて納得した。
「人生とは?」「生きるとは?」なんて言葉を知らなければ考えるきっかけも多分なかっただろうに…。

以前、「幸せのブータン展」という展覧会に行った時に、「ブータンには日本語の“幸せ”を指す言葉はなく、一番近い概念は“心地が良い”である」と知って、なんか納得した覚えがある。
幸せが何かは分からないけど、「何が心地よいか?」と問われたら、「散歩」「温泉」…etc.と細々した答えがたくさん出てくる。
生きる意味なんて、本当はそれで充分なのだろう…。

そうは言っても、なかなかそれで納得はできない。
一度黒に染まったものは、白に戻すのはほぼ不可能だ。

そんな真っ黒な自分だが、生きる意味を問うループから抜け出すヒントを最近得た気がする。
それは、「“完璧そう”な答えに価値はない」ということだ。
なぜならこの世の中に完璧が備わっていないから。

魚の話ばかりで申し訳ないが(ここにも“妖怪論点ずらし”現る)、この間水族館に行った時に思ったことがある。
生物の進化過程の図を見て、「人間も多分まだ進化過程なのだから、そりゃバグもあるよな…」と思った。

「子孫を残すことが生き物の使命」とはよく言うが、日本では年間2万人が自殺しているそうだ。
「ざんねんな生き物辞典」に人間は載っているんだろうか?

バグだらけのゲームを綺麗に攻略しようとする必要は、恐らくない。
バグを見付けたらそれを避けて、自分なりの攻略法で少しでも生き長らえれば良い。
そもそもゴールがあるかも怪しいのだけれど…。
とりあえずサバイバルゲームだと思って、「生き長らえること」だけをミッションだと理解しておこうではないか。

呪われながら生きる覚悟を持つ

死神に、「死にたいですか?」と聞かれたら、今は「うーん…苦しい思いをするなら、自ら望みはしないですけどね…。」という感じの返答だ。

自分を壊してしまいたい衝動は、全くなくなったとまではいかないが、少なくなってきた。

それはなぜかと言うと、ここまで書いてきたように、「未完全なまま生きることが正解だ」と暫定的に答えを出したからだ。

私は大学で教育を学んでいたが、授業で「母親を安定した基地(安全基地)だと認識するから、子どもは自立していく」と習って、心がギューッとなった。
ずっと溺れながら生きている感覚は、そのせいかと―。
みんなそんな基地を心の中に持っていたのか…と―。

そして、安全基地を持たない子どもが成長すると、非行や犯罪に手を染める確率が大きくなるんだとか。
勘弁してくれよ。
とっくに手遅れな“欠けている自分”に、太鼓判を押されてしまったような気がした。

でも大人になってから、私と同じような経験をしている人たちが結構いるとんだと、本やネットで知って、なんだか安心した。
そして、その人たちが、“自分なり”に試行錯誤して生きている姿を観て、「かっこいいな」と思った。
(魚でなくとも“美しい生き様”は体現できるのかも知れない―。)

私が勇気をもらった作品やメディアがどんなものかは、別の回で一気に紹介したいと思うが、最近のドンピシャはアルテイシア(@artesia59)という作家さんだ。
アルテイシアさんは、主にジェンダーやフェミニズムについて執筆している作家さんだが、彼女もまた結構ハードな毒親サバイバーだ。

そんな生い立ちを持ったからこその鋭い視点で、世間の理不尽をぶった切っていくアルテイシアさんの文章は、まるで対面で女子トークをしているかのように楽しく読める。
そして、全く悲壮感なく、むしろ爽快に人生観を武器にしているのは、彼女が自分の人生を受け入れているからだと思う。

泥だらけになりながら旗手を務めようとする人は本当にかっこいいと思うし、自分もまた勇気を出して後を続いていきたいと、少し思うようになった。

アルテイシアさんはちゃんとした作家さんだが、私が生きる気力をもらっている発信者リストには、登録者が100人にも満たないYouTuberなども含まれている。
誰かに想いを伝えるのに、上手い・下手はあんまり関係ないと気付いて、私は底辺の野良フリーランスだけど、別に発信しても良いかなと思えてきた。
だから、このnoteを始めた。(そのうちXも始めたい。)

20代はスピ系の本をよく読んでいたな…と思い返す。
「あなたの人生にはこんな課題が…」って嘘でも目的を提示してもらえれば楽だし、神に選ばれた生まれ方なんだと思い込めば、謎の罪悪感から解放させて人生に意味を持たせられる気がした。
でも、「その場しのぎ」だった。

今大事だと思っているのは、「神に生かされること」ではなく、「多数派に殺されない」ことだと思う。
ネットが発達した時代で本当に良かったと思っている。
でなければ、もっともっと孤独だった。

元々少数派なんだし、私たちは私たちで生存確認して、今日も生き長らえたことを褒めたたえられるような場があったらいいよね。
私たちには私たちの「当たり前」があるのに、ずっと隠してきたからさ。

まだ会ったことのない戦友たちと出会えるような、宗教臭くないコミュニティーを作ろうと思っている。

今日も読んでくれてありがとう!
ではまた!

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