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「死なれちゃったあとで」前田隆弘著〜脳卒中で片麻痺リハビリ中

2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓



死なれちゃったあとで

「残された人」のものがたり

最近は脳卒中や病気に関連する本が多かったけど、今回は珍しくエッセイを読んだ。まあとは言っても、テーマが「死」だったのと、著者が前田さんだから手に取ったのもある。

なぜ前田さんだからかというと、わたしの長年の推し岡村ちゃん(岡村靖幸氏)の連載を担当されている方で、お名前は存じ上げていたのだ。

インタビュー記事などのライターさんという認識程度で、全く経歴などは知らなかったが、「実際に経験した死別について書きました。」という切り口が面白いなと思って。

いや、もちろん人の死を面白がっているわけではない。
だってわたし、2年前ほんとに死にかけたし。でももしあの時死んでいたら、どんな世界が残されていたんだろうってちょっと興味ある。

わたしが死んだくらいじゃ、もちろん世界はもちろん変わらないけど、少なくとも家族やパートナー、友達とかの世界には「残された人」としてわたしの死の余波が残るのかな、と思って。

これまでの経験上、誰かが死んだあと、多かれ少なかれ「死」という出来事は自分の中に波紋と余韻を残す。身近な人でもそうでなくても。亡くなった本人はもう何も生み出さないわけだけど、残された人たちは何を思い、どんな影響を受けるのか。

時折、わたしもふと、亡くなった「あの人」のことを思い出す。
あの人は、おじいちゃんだったり、おばあちゃんだったり。小さい頃隣りに住んでたカメラ屋のおじさんだったり、はたまた高校生の時亡くなった同級生だったり。今でも鮮明に思い出すことがある。

誰でも忘れられない「あの人の死」とそれにまつわるストーリー、想いがあるはずだ。普段、わざわざ人に話したりはしないけど。

前田さんは、自分の実体験を通して、考えたこと、感じたこと、そして時には行動したことを淡々と記している。人の死がテーマだったし、残された人の心情に触れるわけだから、涙もろい自分なんかはイチコロだな。が、不思議と涙は出なかった。

自死なんかは、「どうして?」という想いを相手に残すけど、消化しきれなかった想いはそのままに。無理に綺麗にまとめようとはせず、メランコリックな感じに陥るわけでもなく、御涙頂戴でもなくて、ひたすら丁寧にその事実と感情に向き合う様子が描かれている。

情けない人生でした

この本に描かれている「死」の中でも、いちばん印象深いのは、前田さんの大学の後輩D君の死。

「情けない人生でした」

走り書きのメモをポケットに残し、自らの人生を終えた後輩。
「針中野の占い師」というタイトルで、D君については冒頭に書かれている。

そして20年後の2023年、前田さんはD君の故郷である種子島を訪問する。

そこには荒波にのみこまれるどころか、D君の死を乗り越えて、挑戦することへのためらいがない一家の姿があり、逆に前田さんが励まされている。

Dの話をしに種子島にやってきたはずが、一家の「人生の荒波を乗り越えるパワー」に、すっかり当てられしまった。挑戦することへのためらいがない。

「死なれちゃったあとで」より

「結局、前向いて生きていかんと、楽しくないでしょ。」
お父さんの言葉が印象的だった。

永遠の保留

自分のまったく預かり知らぬ場所で、誰かに影響を与えている。
人生にはそんなこともある。

「永遠の保留」で登場するDさんは、東京に上京するきっかけとなった人物で、前田さんにとっては恩人同然の人。今の活躍があるのは、Dさんのおかげだと言っている。

前田さんは20年前、Dさんの書くブログに偶然出会い、福岡で一度だけ飲みに行く。その後ネット上のやりとりが続いたが、Dさんの更新が止まりそのままに。

忙しいのかな…と思いつつも年月が経ち、10年後亡くなっていたことを知る。

Dさんの最後のツイート(ポスト)は「しかたない」
そうツイートした当日、Dさんは亡くなったらしい。

わたしの思わず気になってX(Twitter)を見に行った。
今でも当時のそのまま「しかたない」「が残っていた。

もう更新されることのない、主(あるじ)を失ったアカウント。
Dさんがどのような想いで最期のツイートをしたのかは、もう聞けないのでわからない。

想いは浮遊したまま。残り続ける。

わたしもこの病気(脳卒中)になってから作ったアカウントがある。
大きな病気をして後遺症に苦しむ人や、今まさに戦っている人、そして余命宣告を受けた人など。多くはそう言った人たちと繋がっており、この2年ですで亡くなった人もいる。

大体は家族の方が「亡くなりました」と代理投稿をしていて、やり取りのあった相手だと、まるで友人や身内を失ったような気分になる。たとえやり取りはなくても、これまでの経過を見ていただけに、誰かが亡くなるのは本当に辛い。

時折覗きに行って、まだアカウントがあるとありし日が偲ばれてホッとする反面、もう更新されることはないんだ…と切ない気持ちに襲われる。

一方で、ただ更新されなくなったアカウントもあり、モヤモヤすることも。
やり取りのある相手には、心配でDMを送ったこともある。何せ私たちは病気というキーワードで繋がっているものだから。

そのまま既読にならず、何ヶ月もそのままの人もいる。

そういう場合は、やっぱり
「永遠の保留」になっちゃうのかな…。


こじらせ女子の生き様

2016年11月、ライターの雨宮まみさんが亡くなった。
著書「女子をこじらせて」から、「こじらせ女子」が2013年に新語流行語大賞にノミネートされるなど、注目を浴びた人だ。

前田さんとの出会いはインタビュー相手の一人として。
死生観についてのインタビューだった。

長生きへの執着がないこと。「今が楽しいこと」がもっとも大事で、それをないがしろにしてまで長生きしようと思わないこと。歳をとることへの恐怖があること。その恐怖の中心には、おそらく異性との関係が大きく関わっていること。

「死なれちゃったあとで」より

「長生きへの執着がない」とか、”今”とか、なんだか自分と重なる部分もあったりして、彼女の言葉は胸に刺さる。歳をとることへの恐怖は今のところないけど。

「あれがしたい」「これがしたい」というのは、
わたしにとっては、「なんとか生きていくためにしたいこと」だ。
(中略)
でも、自分から死なずに生きているのは、
希望を信じているひとのほうが、正しく見えるから。
たとえ報われなくとも、希望を信じて生きるひとのほうが、美しく見えるからだ。
正しさや美しさを放棄することが、わたしにとっては、生きることを放棄することとおなじことなのかもしれない。

「死なれちゃったあとで」より

雨宮さんのブログ「戦場のガールズ・ライフ」からの引用だ。
前田さん曰く、雨宮さんにとっては「愛し合うこと」が人生の中心で、そうでない事柄はどれだけ魅了的であろうと、生きることの根本的な理由にならないのだろう、と。

以来、前田さんと雨宮さんはネット上で軽口を叩き合う関係に。
仕事でもたびたび関わるが、2016年雨宮さんは突然自宅で「事故」により急逝した。40歳だった。

それぞれの死生観と、死ななかったわたし

2016年、亡くなった年。最後に書かれたブログ
死にたくなった夜のこと」が今も残っている。

日付は2016年6月8日。

彼女の死生観には自分のそれが重なる部分も大いにあるが、彼女を希死念慮に向かわせた分岐点はなんだったんだろう。

雨宮さんはすごく正直な人だったんだと思う。
自分にも、自分以外の人に対しても。

痛いくらいまっすぐで、正直。
わたしも若い時はそう称されていたはずが、いつの間にかそうでない部分が増えていった。抱えるものが増えるたびに。

「愛」に種類があるなら、そして彼女のいう「愛」がエロスだとしたら、もしそれ以外の存在、絶対的な存在があったら違っていたのだろうか。エロスの愛は脆いから。

14から「いつ死んでもかまわない」が口癖のわたしが、死のふちまで行き戻ってきたのは、自分の遺伝子を血を分けた不変的存在への愛ストルゲーがあったから?いや、わたしにとってはアガペーだな。

結婚も出産も経験し(ついでに離婚も)全てが想定外な人生だったけど。
人生は太く短くでいいし、長生きへの執着はいまだにないけど。
そんなわたしが生きている。障害というおまけつきで。

2年前のあの日。脳出血で倒れ意識不明になってもなお、死ななかった。
死ねなかった。無意識の意識下で死なないを選択したんだと思う。
たぶん。

そんな経験をしても、なんだかんだでわたしの死生観はかわらない。
だから、ちょっぴり雨宮さんに嫉妬した。貫き通した彼女に。

死なれちゃったあとで

人生に「たられば」はないが、もしあの時人生が終わっていたら、どうだったろうと思うことはある。自分がどうこうではなく、残された人たちは。

自分は正直、あの時終わっていても別に後悔はなかった。
考えてみれば、仕事帰りに駅のホームで倒れるなんて、実にわたしらしい最期じゃないか。

頭どころかどこもまったく痛くなかった。痺れもなく、前兆はなかった。
ただ手足に力が入らなくなり倒れ、話せなくなり、意識が遠のいた。
あっという間の出来事で、いったい何が起きているのかわからなかった。

あのまま亡くなっても後悔はなかった
と思うのは自分だけで、「死なれちゃったあとで」にあるように
残された人たちはいろんな想いをめぐらせていただろう。

生命体としては死んでいても、その人の人間としての有りようは、自分の中では変わっていく余地がある。
これは後付けではあるけれど、「死なれちゃったあとで」というタイトルには、「死なれちゃった瞬間の感情」というより、「死なれちゃったあとの気持ちの経年変化」というニュアンスが含まれているように感じる。

「死なれちゃったあとで」より

生命体としては終わっても、有りようは誰かの中で変化していくという考えが面白いと思った。

気持ちの経年変化、そうかもね。

誰かが死んでも、残った誰かの中で生き続けるし、時々思い出すあの人たちは確かにわたしの中で変化しつつも生きている。

次は、雨宮まみさんの本を読んでみようと思う。


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