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引退から復帰まで
初めまして。2020年、J3のYSCC横浜で9月からプレーしている、のぶです。よろしくお願いします。
ぼくは
J2→地域リーグ→引退→J3復帰
こんなサッカー人生を送っています。
このnoteでは、
僕のnoteでは、
✅サッカーの考え方
✅食事
✅コンディション
✅メンタル
✅日常
✅質問への返事
を伝えていきます。
一度引退して現役復帰した時、これは自分の経験を伝える役割をもらったと直感があったからです。
僕の経験が子供、保護者の方々、様々な形でサッカーをしている方々のお役にたち、背中を押せればいいな。
前回、学生時代まで紹介したので、今回は社会人編になります。
ザスパ草津
大学卒業後、J2のザスパクサツに進みました。現在、水戸ホーリーホックの監督の秋葉忠宏さんは僕の従妹。
一年目は共に選手。試合の後、よく夜中まで話をしていたな。懐かしい。その時の話が今、役に立っていることがたくさんあります。
ザスパでの3年間は唯一、試合に出れない期間でした。3年間で出場した試合数は6試合(途中出場が4試合、先発出場が2試合)。
当時も今も悔しい。やっぱり選手は試合に出ないとね。地域リーグにいる間も、
もう一度挑戦したい
気持ちはずっと頭の片隅にありました。
この時の試合に出れない経験、気持ちは年齢を重ね、チームでも上の立場になった今、やっと意味があった、経験していてよかったなと思えるようになりました。
選手は試合に出場することが何よりも大事で、スタートライン。一分後、プレーをしている保証は誰にもありません。今に全集中です。
出場出来なかった3年間。諸先輩方、スポーツジムのトレーナーの方々、当時スタグルのスポンサーの方々のおかげで、腐らずにサッカーをしていました。
この時に出会いは宝、応援してくれる人、支えてくれる方々のありがたさを学んだな。
ジェフリザーブズ
ザスパを3年で戦力外となり、次のチームは当時JFLのジェフリザーブズ。ジェフリザではチーム解散、震災、手術の経験をします。
またジェフリザでの出会いが、10年ぶりのJリーグの舞台への復帰となります。
まずは解散の話。
リーグ戦に向けてのプレシーズン中。正確な時期は覚えていませんが、リーグ開幕前にチームが今期で解散することが決定。
そのタイミングで監督の交代。開幕前から、こんなことあるんだなぁと呑気にしか思っていませんでした。
ずっと一緒にいてくれたサポーターの方々の存在がすごく尊かったなぁ。
物理的な距離も精神的な距離も本当に近かくて。どんなに負け続けても、ずっと同じスタンスで支えてくれました。
こんなことを僕がいうと、きっとボンズ市原のサポーターの方々は
⁇⁇⁇⁇
秋葉がそんなこと言うか⁇⁇
と思われかもしれません。
ボンズ市原のサポーターの方々にはとっつきにくい選手と思われていたと思います(笑)。
次は震災。2011年3月11日、開幕を目前に震災が起こります。リーグ戦どうこうというより、日常が非日常となりました。
初めての街頭募金活動、チャリティーマッチ。もちろん開幕は延期。現在はコロナですが、一瞬にして日常が変わることってありますね。
だから今、この瞬間を生きましょう。明日が、次の試合が、次の一分後が来る保証は誰にもありません。。自分に正直にやりたいことをやりましょう。
最後は僕自身のこと。鎖骨を骨折し手術。
仙台で試合中に転倒して骨折。ただ、転倒後プレーに一度戻りました。痛みに強いんだか、鈍感なんだかわかりません(笑)。
この時間を、現監督のユウキと共有しているので、ユウキは僕のことを痛みに強い選手、痛くてもやる選手と多分思っています(笑)。
骨折し、救急で入った病院で
「はい。折れてますね。入院です。」
と、レントゲンを取る前からすぐ言われたのを覚えています。
結局、千葉に帰りました。荷物は後輩が全部持ってくれて。ほんとに助かったのを今でも覚えています。
最後は出会い。
シュタルフ悠紀との出会い
ジェフリザーブズ時代に、YSCC横浜監督のシュタルフ悠紀に出会います。この出会いが2020年に僕の現役復帰とつながります。
本当に人との出会いを大事にするって大切ですね。
ユウキの家は僕の家族が経営していたコンビニの近くでした。練習も一緒に行ってました。すぐに僕の家族とも仲良くなりました。
一昨年、僕抜きでユウキが監督をしていたYSCC横浜の試合を三ッ沢に観に行ってました。
ユウキも僕の家族をみつけて、声をかけてくれたらしい。家族からすぐに電話がかかってきたのを覚えています。
ワールドカップを僕の実家で一緒に観たり、チームが離れていても、一年に何回連絡を取ったり、会って食事をしたりしてました。
ユウキはジェフリザ時代、残念ながら怪我で一緒に公式戦に出ることは出来ませんでした。練習の紅白戦でポジションがら、マッチアップをしていました。
賢くサッカーをしていて、人に強い選手でマークにつかれると厄介な選手。ユウキの賢いプレーを周りが理解できていなかったのが印象に残っています。
僕はユウキの賢いプレーが好きだったので、一緒に試合に出たかったなと今でも思っています。
因みにこの年にユウキも僕と同じ病院で、同じ医師のもと手術をしています(笑)。手術後、退院するユウキを母親の「迎えに行ってあげなさい」の一言で迎えに行ったのもいい思い出です。
ユウキは本当にサッカーの理解力が高く、おもしろい指導者です。ユウキの考え方はたくさんの人に触れてほしい。今後、何かしらの形でお届けします。
ボンズ市原
ジェフリザ解散後、当時千葉県一部のボンズ市原に。8年間プレーしました。ボンズは今年、多くの選手が入れかわりました。
ボンズの歴史を簡単に振り返ります。今後、ボンズでプレーする選手に役立ちますように。
千葉県一部時代
この時の練習環境は、週に2回か3回の練習に週末の試合でした。グランドはまだありません。市原市内の施設、学校のグランドをお借りして活動していました。
プロ選手はゼロ。みんな正社員で仕事して、19時からの練習。入れ替え戦の宿泊費も一部負担がありました。
関東2部時代
練習はまだ夜。当時の監督、西村卓朗さんを中心に平日の稼働日が増えて、徐々に昇格を目指すクラブへと変わっていきます。
少しづつ選手も獲得しはじめました。まだグランドもクラブハウスもありません。
関東1部
関東一1部までは順調に昇格します。ここから今まで昇格を出来ていないのが現状です。全社を勝ち抜く、リーグ戦を優勝する。両方の経験をチームはしています。
関東1部に昇格して2年目。
なんと練習は朝5時から7時。今までのサッカー人生で一番の過酷な状況でした。
練習後8時間の仕事。クラブハウスはまだありません。急いで仮設のプレハブでシャワーを浴びて、仕事場に1分でも早く着きたい。
なぜか⁇
車の中で、朝の出勤時間まで寝る為です。車の中に枕、毛布を2枚用意してありました(笑)。
今のようにグランドがあって、クラブハウスがあって、仕事も優遇してもらえるまで、長い長い道のりと、様々な方々の尽力ありました。
僕は唯一、千葉県一部から今の環境になるまでトップチームでプレーし、環境の変化を観てきた選手です。
2019年に僕は戦力外になり、ボンズでの旅は途中で去ります。今後の選手たちが旅を、夢を紡いでください。
そして、選手も、市民の皆様も、ボンズ市原に関わる全ての方々がクラブに関わることで幸せになって欲しいと願っています。
サポートのお願い
自分の好きを突き詰める活動を一緒に創っていきましょう。僕の場合はその手段がサッカー、健康、背中を押す行動です。
スタートラインに導いてください。そして一緒に歩んでください。今後、形にしていきたいと思います。よろしくお願い致します。
僕は皆様の背中を押せるように活動しています。 挑戦するお手伝いですね。 皆様が僕に背中を押してもらったよ!と思っていただたときに お気持ちとしてサポートしてください。 これからも皆様の背中を押せるように使わせていただきます。