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苦しみの原因が理解されるならば、その原因を訂正することができる


苦しみからの完全なる脱却をめざして

苦しみの原因は何なのか?

その原因が明らかになるならば、苦しみの原因が認識されるならば、私たちはその苦しみを訂正することができます。

そしてそれが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていくことだと言うことができます。

コースでは、それを「奇跡」または「赦し」と呼んでいます。


奇跡とは訂正である。(W-pⅡ.13-1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


そして、その訂正(奇跡)によって、私たちは知覚しているものすべてが虚偽(嘘)であることを思い出してくことになります。


奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pⅡ.13-1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


知覚が訂正されるとき、そのとき、そこにはもはや深刻さはありません。

それが虚偽だと分かるなら、何の問題もないことが明らかになるからです。

この世のものとは全く関係ない平安がそこにはあります。

それを「神の平安(の反映)」と呼んでいます。

そしてそれこそが正しい見方(真の知覚)だと体験的に分かります。

同時に、これまでの見方(知覚)がまったくの誤った知覚だったということが認識されます。

ようするに、苦しみとはたんに間違った知覚をしていただけだったのだと体験的に学んでいくことによって、私たちは苦しみから脱却していくということです。

つまり、「苦しみが苦しみではなかった、問題が問題ではなかった」と、その真実が思い出されていくことが、本当の「苦しみからの脱却」ということなのだということです。

このコースはそのような霊性の道であるということを覚えておきましょう。


「四つの真理(四諦)」と「八正道」について

「苦しみからの脱却」というテーマでいえば、今から約二千六百年前にブッダが説いた(原始)仏教の教えが有名どころとして挙げられます。

ブッダは、その教えをシンプルに「四つの真理(四諦)」として説かれました。

一つ目の真理:この世界は一切が苦しみであるということ。(苦)

二つ目の真理:すべての苦しみには原因があるということ。(集)

三つ目の真理:私たちは苦しみから脱却することができるということ。(滅)

四つ目の真理:苦しみから脱却する方法があるということ。(道)

さらに、その方法として、八正道を説かれたのです。

八正道とは、

正見(しょうけん)
正思濰(しょうしゆい)
正語(しょうご)
正業(しょうぎょう)
正命(しょうみょう)
正精進(しょうしょうじん)
正念(しょうねん)
正定(しょうじょう)

という八つの正しい道のことです。

ここで重要なこととして理解しておかなければならないのは、その八つ正しい道の一番最初に「正見(正しい見方)」があるということです。

つまり、「正見(正しい見方)」がなければ、それからはじまるすべての実践、つまり、正思濰、正語、正業、正命、正精進、正念、正定もあり得ないということです。

ようするに、正しいものの見方、考え方というものが分からなかったならば、八正道の実践はあり得ないということです。

ですから、コースの実践でも同じことが言えるわけです。

「赦し」の実践をしていくためには、コースの思考体系(形而上学)のしっかりとした理解がなければ、つまり、「正しいものの見方、考え方」というものがなければ、その実践もあり得ないということです。

要は、コースの思考体系を明確に理解することが必須だということです。

私たちがコース形而上学を学ぶのは、それは「正しいものの見方、考え方」について学んでいるのだということを覚えておきましょう。

しかも、それは修得(マスター)しなければならないものであるということです。

というのも、すでに私たちは誤ったものの見方、考え方(自我の思考体系)を学んでしまっており、今や、正しいものの見方、考え方(聖霊の思考体系)を忘れてしまっているからです。

ですから、私たちは正しいものの見方、考え方である聖霊の思考体系が完全に修得されるまで学びと訓練がなされる必要があるのです。

まずは、誤った自我の思考体系と同一化してしまっていることを自覚/認識すること、そして、それを訂正していくこと、それがコースの学びと実践において私たちがしていくことだということを肝に銘じておきましょう。


コースは、悟り、解脱へと導く教えである

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では何を学んでいくのか?

というなら、

この世界はいったいどのような世界なのか?
この世界はどのようにして、何の目的で作り出されたのか?
その原因は何か?
それ以前のもともとの自分(私たち)は何者だったのか?

といったことだけでなく、さらには、

私たちはどのような見方、考え方(思考体系)のもとに、どのような実践をしていけばいいのか?

ということについて学んでいるということです。

そして、それを「コース形而上学」と呼んでいるということです。

そして、その実践的な手段を「赦し」と呼んでいます。

ようするに、「赦し」の実践をしていくための土台となるものがコース形而上学なのだということです。

「赦し」とは、あくまでも方法、手段です。

「赦し」は、目的ではありません。

そして、私たちが覚えておかなければならないのは、

赦しの目的は何か?

というとき、

真の知覚の修得、そして、真のアイデンティティーを思い出すことなのだということです。

もし、その目的がちがったものになってしまうならば、「赦し」の実践もまったくとんちんかんなものになってしまうといえます。

私たちは、何のために、何の目的でコースを学んでいるのか?

そして何のために「赦し」を実践していくのか?

その目的を明確にしていく必要があるということです。

だからこそ、コース形而上学の学びと明確な理解が求められるわけです。

もっといえば、コースは悟り、解脱、目覚めを目的とした道であると概念として分かっていたとしても、

そもそも、その悟り、解脱、目覚めとは何なのか?

悟り、解脱、目覚め、それがどういうものなのか?

私たちはそういうものについてよく分かっていないならば、まったく間違った学び方や実践をしてしまうことになりかねないということです。

だからこそ、私たちはそういうことについて理解するために、コース形而上学を学んでいく必要があるということです。

もしコース形而上学を学ぶことも、理解することもなされていないならば、当然、その目的も、その実践もちがったものになってしまうのは避けられません。

コース学習者たちが、その目的も、実践の仕方も見失ってしまうことはよくありがちなことです。

なので、コースが一元論のスピリチュアリティであるということを忘れないように、コースの学びと実践を励んでいきましょう。


何のためにコースという霊性の道を歩んでいるのか?

上記でも述べたように、コースは一元論のスピリチュアリティであるということを忘れないようにすることはとても大事です。

一元論のスピリチュアリティとは?

というとき、その中心概念となるものこそ、外側に世界は無い、世界は幻想である、というものです。

ただし、私たちはそのようには知覚していないわけです。

外側に世界があるかように見えていますし、私たちはこの世界のことで一喜一憂しているわけです。

なので、まずはそのことを自覚/認識することが必須です。

そう、私たちがコースの学びと実践を通して目指しているのは、この世界の夢(幻想)から目覚めていくことであるのを忘れてはなりません。

私たちが学ばなければならないのは、すべては幻想だとしても、その幻想は天国(ワンネス)とは真反対の経験をするための幻想なのだということです。

つまり、私たちは自ら望んで天国の対極の「苦しみ」というものを体験し続けているのだということです。

そう、何のためにコースという霊性の道を歩んでいるのか?

その目的は、苦しみからの完全なる脱却なのだということです。

なぜ、私たちは苦しむのか?

それには原因があるのだということ、そして、コースは、その原因を見つけ出して、訂正していく道なのだということです。

原因は何なのか?

それが認識されないままならば、訂正もなされることはありません。

逆に、毎瞬毎瞬、原因を認識していくならば、つまり、心(の決断の主体)にいつも戻っていくならば、自分は何者なのか?そしてその自分は何をしているのか?も自覚されていくことになります。

つまり、真のアイデンティティー(真の自己)が思い出されていくことになります。

そして、それに伴ってもたらされるものが「真の知覚」「キリストのヴィジョン」というものです。

それは、私たちがコースの赦しの実践を通して修得していくべき知覚であり、それは、悟り、解脱、目覚めへと至るために必ず修得されなければならないものであるわけです。

なぜなら、それこそが苦しみの終焉であり、苦しみの消滅であり、苦しみからの完全なる脱却であるからです。

コースはそれをめざした霊性の道なのだということを覚えておきましょう。


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