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ネガティヴな感情にとらわれたとき、動揺したときこそがまさに練習のときです

「静けき中心」へと還る

なぜ私たちはいつも心配、不安、不平不満といったネガティヴな感情にとらわれてしまうのか?

というならば、

私たちは、じつのところ、「平安」「静けさ」というものを嫌っているからなのだと言うことができます。

そのためにいつも心配、不安、不平不満でいようとするということです。

それが自我というものであり、自我にとっては「平安」「静けさ」というものは敵なわけです。

そして、私たちは、その自我と同一化してしまっているということです。

つまり、私たちは、「平安」「静けさ」を恐れているということです。

私たちは、そのような精神力動に突き動かされているのです。

でも、私たちは、そのことをまったく自覚していません。

なにせ無意識の領域のことですから。

まるでプログラミングされているかのごとく、私たちは自動的に自我に突き動かされていることにまったく自覚がないのです。

「平安」「静けさ」に留まることがないのはそういうことです。

リラックスしようとしても、静けさに留まることがないのです。

じっとしていることがありません。

何かにつけ、いつも思考を巡らせています。

そうやって、自我はいつも平安、静けさを避けているわけです。

私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えに基づいて自分の内側を観察していくとき、そのことをはっきりと自覚するようになります。

そもそもが自我とはそういうものなのだということを理解しておくことはとても重要だといえます。

というのも、自我とはそういうものだと理解しているならば、もちろん、その自我と闘うこともないからです。

いちいち自我を咎めることもなければ、裁くこともありません。

コースの教えが自分自身に根付いていくにそたがって、そういうスタンスでいることができるようになっていきます。

そうなっていくためには、やはり自我の力動論について学んでいく、そして、理解していく必要があるということです。

自我を咎めずに見て(観察して)いくためには、それは必須です。

というのも、それなしでは、自我を咎めずに見ることは不可能だからです。

自我を咎めずに見ることによって、その観察者の自分は、自我と同一化している状態から離れてることになります。

いわゆる、それが、聖霊(正しい心)と同一化するということなわけです。

聖霊(正しい心)の視点から見るとき、その観察者は、とても静かです。

そこには「平安」「静けさ」があります。

いくら自我が騒がしくしていようとも、いくら自我が騒がしく語りかけてこようとも、それらを静かに見ている(気づいている)主体がいます。

その主体(観察者)こそ、コースで述べられている「静けき中心」(T-18.VII.8:3)というものです。

あなたが何もしない場であるこの静けき中心はあなたと共にあり続け、あなたに任せられた忙しい活動のさなかにも、あなたに休息をもたらすだろう。(T-18.VII.8:3)

奇跡講座/中央アート出版社

その「静けき中心」とは、まさに「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)であり、時間を超越した(時間のない)領域であり、「いまここ」と呼んでいる場所です。

そして、そこがそもそも(主体である)自分が居る場所だったのだということが認識されていくことになります。

とは言いましても、日常の生活の中で激しく動揺したときには、その「静けき中心」に戻ることはなかなかそう簡単にできるものではありません。

ですから、動揺したときこそが、むしろ、その訓練をしていくためのチャンスであると捉えるべきです。

静けき中心」に戻る訓練をしていくなら、どんな自我(闇/ネガティブな感情)も本当の自分とは一切関係ないのだということが体験的にわかってきます。

つまり、本当の自分は一切この世界から影響を受けることはあり得ないのだと理解されるということです。

そのようにして、私たちは真のアイデンティティーを思い出していくとともに、この世界の起きていることから自由になっていくのです。

それは、実践(練習)によってしか学べないものであり、つまり、訓練していくことでしか修得し得ないものであることは言うまでもありません。


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