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悟った人!?悟ってない人!?

悟りの深さに段階(レベル)がある

「悟り」について述べるならば、

この世界においては、悟りの深さにレベル段階(レベル)がある、

というふうに言うことができます。

厳密に言えば、悟りへと至るそのプロセスには段階がある、と言ったほうが正確でしょう。

ただし、「段階」や「レベル」という表現も、あくまでも「この時空間の中においては」という前提であることは言うまでもありません。

というのも、

「悟り」そのものは、その段階も、レベルも存在するわけがありません。

なぜなら、「悟り」それ自体、この世界やこの世界のこととはまったく一切関係がないからです。

ですが、この世界にいる私たちにとっては、いわゆる、この時空間の中においては、悟りへと向かうプロセスの段階がありますし、悟りの深さにレベルがあるということです。

そのことを明瞭にしておくことは、とても重要です。

そのことが分かっていないとき、私たちは「悟り」というものを概念で弄ぶようなことをしてしまうのです。

分かりやすい例として、「悟り」を一瞥しただけにもかかわらず、「悟った人」のフリをしたり、あるいは、過去の悟り体験をこの時空間の世界の中でその後もずっと持ち続けていようとしたりして、もはや悟りからまったく離れてしまっているケースはよくあることです。

その意味で、この世界における「悟り」には段階(レベル)がある、という言い方になるわけです。

「悟り」を一瞥しただけというのと、「悟り」を体現しているのとでは、そこには雲泥の差ほどのものがあるということです。

実際、巷の悟り系のスピリチュアリティ、いわゆる、非二元のスピリチュアリティを見るとき、それぞれにそのレベルの深さの違いを見ることができます。

レベルの浅い段階のもので言えば、悟りや非二元の教えを願望実現や自己啓発といったものと混同して、この世界(形態レベル/肉体レベル)のことと混ぜこぜにしている非二元のスピリチュアリティもあれば、

レベルの深いものでいえば、まったく混じり気のない純粋な非二元のスピリチュアリティまで、

この幻想世界にはさまざまな非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)が存在するのを見ることができます。

ただし、私たちが忘れてならないのは、そのいずれのスピリチュアリティも、この幻想世界の中のものであるということでいえばどれも同じだということです。

悟り、真理、非二元を探究する者たちにとって、その真実が見落とされるとき、もはや非二元の霊性の道を見失ってしまうことになります。

いわゆる歴史上の宗教やスピリチュアリズムは、そのように成り下がってしまったといえましょう。

そもそもが非二元、真理へと至るための霊性の道であったにもかかわらず、その霊性の道がすり替えられて、この幻想世界に持ち込まれてしまうということが起きるわけです。

真理を幻想世界に持ち込むとき、私たちはスピリチュアルの名のもとに、さらなる迷宮の中へと彷徨うことになります。

そうならないように、特に、非二元の霊性の道を歩んでいる者であるならば、警戒していかなければならないことだといえます。

いわゆる巷のスピリチュアリズムでいうところの「ノンデュアリティ難民」となってしまわぬように、

この世界の中においては「悟り」に段階(レベル)がある、

ということをしっかり覚えておきましょう。

一瞥した人たちの言葉に惑わされないように、ということです。

彼らもまた、あなたと同じようにこの時空の中をさまよっていたりするということです。

「悟り」「非二元」という言葉に惑わされないように、それがどういうものであるかを、私たちはしっかり見極めていく必要があるということです。

さらにいうと、私たちはこの幻想世界の夢を見続けているからこそ、「悟り」という概念があるのだということも知っておくと良いでしょう。

悟りの視点から見ている者にとっては、もはや「悟り」すらないのだということを分かっています。

真には、「悟り」というものも無です。

悟りとはそういうものであるということを知っておくと良いでしょう。


悟った人、悟ってない人

「悟った人、悟ってない人」ということなどあるのでしょうか?

もしそのように見えているとするなら、それは明らかに間違ったものの見方、つまり、自我(二元性)の思考体系の見方だといえます。
(通常、私たちはその思考体系の見方で見ています。)

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