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私はどこにでも臨在している

I am everywhere.

悟りの視点から見るならば、「私」というものはいません。

それが意味するのは、自分と思っている「自分」は非実在なのだということです。

そのことを真に理解するようになるとき、もちろん、外側に見えている他者の中にもパーソナリティ(人格)など無いのだということが分かってきます。

つまり、この世界には誰もいない、さらにいえば、この世界もないのだと。

そうなるとき、自分が知覚しているそのすべてが夢(イメージ)を見ているだけであると認識されるようになっていきます。

この個人の自分も含めて、彼らすべてが人の形態をしたフィギア(人形/演者)でしかないと知覚されるわけです。

それと同時に、彼らすべてが自分(の一側面)を見ているだけだと分かってきます。

つまり、彼らは「自分と同じ」という共通の利害の知覚になっていくわけで、いわゆるコースで「兄弟」と呼んでいることの意味が分かるようになります。

そうなっていくと、どうなるのか?

それを言葉で表現するならば、

自分は心であることが自覚されていくだけでなく、この世界のすべては自分の心の中であり、それを見ているにすぎない、

という感覚になっていきます。

もはや「私」はいません。

言い換えるなら、「自分はどこにでも臨在している」ということです。

そのように知覚されていくようになるということです。

というのも、何を見ても、どれを見ても、自分の投影(自分の側面/一部)を見ているだけだと自覚されていくわけですから。

「私」はいない。

と同時に、

「私」はどこにでも臨在する。

そのような感覚は、なんら神秘なことではありません。

すべては自分が作り出した夢であると気づいているなら、当然のことです。

そうやって、自分は心(夢を見ている者)であると認識されていくのです。

そのように知覚していくようになるとき、それは「投影」ではなく、もはや「延長」というかたちで自分と同じものを外側に見る、つまり、ワンネスの反映を知覚するようになる、ということを知っておくと良いでしょう。


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