絶望を悟るとき、それは本当の希望を見い出すとき
この世界を超えたところに私の望む世界がある
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、この世界は自我の思考体系が作り上げた世界であり、まさに、罪、罪悪感、恐れが基盤となった世界であるということです。
そう、コースはこの世界について、「この世界は恐れと攻撃で作られている」と教えてくれています。
にもかかわらず、私たちはそんな世界にいながらにして、どうにか自分だけ(自分のまわりだけ)は安全、安心でいられるようにと思っています。
その(仮の)安全、安心を手に入れようとして私たちは日々あくせく生きていて、私たちはそれを「人生」と呼んでいます。
その人生は、病気であったり、災害であったり、死であったり、外側のものにいつも脅かされ続けているばかりで、まるで心休まることがありません。
この肉眼の世界を見るかぎり、世界を見まわせば、問題だらけです。
もっといえば、この世界に居る私たちは、病気、老い、死からはけっして逃れることができないわけで、そういう意味では、絶望的です。
ならば、私たちは、いったいどこに希望や光を見出せばよいのでしょう?
そのヒントとして、仏教では、この世界について「一切が苦しみである」というふうに告げています。
でも、私たちは一切の苦しみから脱却できるとも説いています。
そして、コースもこの世界を超えたところに私たちが本当に求めている世界があると教えてくれています。
ただし、私たちが理解しておかなけれならないのは、私たちはこの世界に絶望しないかぎり、この世界を超えたところに希望を見い出すことはないということです。
言い換えるなら、私たちがこの世界に絶望するとき、それは私たちが本当の希望を見い出すチャンスなのだということを知っておくと良いでしょう。
別の道があるに違いない There must be another way.
コースが教えていることを理解するようになっていくならば、必ずと言っていいほど、絶望感、虚無感を抱くようになっていくといえます。
それというのも、そもそもが私たちの心の(無意識)深いところではすでに絶望しているからであって、それが顕わになって意識化されてくるということです。
それは、この世界にいるみんなに言えることあり、じつのところ、この世界の誰もが絶望しているということです。
なぜなら、神から分離したという想念を信じているその結果としてこの世界にいるわけですから、神不在、愛不在のこの世界の中で絶望していないわけがありません。
つまり、私たちはみんな、その絶望を隠して生きているのです。
ただし、コース学習者としてコースの道を歩んでいるのであるならば、この世界に絶望していくことは、むしろ、祝福であるとを知っておくと良いでしょう。
つまり、絶望したときこそが、本当の希望を見い出す機会(チャンス)であるわけです。
なぜなら、絶望するとは、これまでの見方、考え方ではうまくいかない、希望がない、ということ知る(悟る)ということなのですから。
そのことを悟るときこそ、ようやく私たちはこれまでとはちがう見方、考え方を望むようになるといえます。
つまり、コース学習者にとっては、絶望したときこそ、つまり、本当に行き詰ったときこそが、
There must be another way.(別の道があるに違いない。)
というアイディア(想念)を招き入れる準備が整ったときだと捉えることができます。
言い換えるなら、絶望しないかぎり、私たちはこれまでのやり方(見方、考え方)でまだどうにかしようとします。
自我の思考体系のままで、つまり、狂気の思考体系のままで、まだそこに解決方法があるというふうにしてしまうということです。
自我の思考体系のままではけっして幸せにはなれないと認識しないかぎり、それをやめようとはしません。
そういう意味では、絶望することは、これまでとはまったくちがう別の道を選択するための動機付けになるということです。
別の道を選択するとは、つまり、別の思考体系を選択するということです。
その別の道(思考体系)こそが、私たちが忘れてしまったもう一つの思考体系だといえます。
コースでは、それを「正しい心」「聖霊」と呼んでいます。
それは、自我の思考体系を脇におくことをしたときに、招き入れられることになります。
それが、コースでは「聖霊の教師を選び直す」ということであり、それが、私たちがコースの実践で求められていることだと言うことができます。
さらにいえば、それこそが私たちにとっての唯一の希望であり、救いであるといえましょう。
聖霊の教師を選び直すとき、これまでとはまったくちがう知覚がもたらされることになります。
いわゆる、「聖霊の視点」「ヴィジョン」がもたらされるわけです。
聖霊(イエス)の視点から見るならば、すべてをありのままに見ることができます。
それはどういうものか?というなら、
これまでの自分は、自我を教師とした状態(マインドレス/心を忘れた状態)になっていただけで、自分は外側のものに脅かされる脆弱で卑小な存在であると信じていただけだったのだとはっきりと認識するということです。
つまり、自分で自分に行っているにすぎない(T-27.Ⅷ.10:1)ということが明らかになるわけです。
それが、コースでいう「赦し」であり、そして、そこから見ている知覚を「心眼(ヴィジョン)」と呼んでいるということです。
恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である
「天国の対極の夢を体験したい」と自分で願望したのが、この世界なわけですが、
それがどういうことなのか?というならば、
つまりは、「絶望していたい」と願望したのだということです。
そのことを受け入れるとき、私たちは赦しの視点(聖霊の視点)に戻ることができます。
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