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自分は心であると分かってくるとき、そこからが本格的な学びの階梯を上っていくプロセスのはじまりです


この世界の中にいるかぎり、学ぶべきこと、訓練していくべきことがある

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えから言えば、たしかにこの世界は実在してはおらず幻想です。

とはいっても、ただやみくもにこの世界を幻想として否定していくのではありません。

学びが浅い段階においてはそのような実践をしたりもしますが、コースの形而上学をちゃんと理解していくにつれて、コースはそのような実践をしていく道ではないということが分かってきます。

この世界をやみくもに幻想として否定していくことについて、コースでは、”否定の中でもとりわけ無価値な形の否定”(T-2.Ⅳ.3:11)と述べています。

というのも、実際のところ、私たちは今やこの世界の中に存在していると信じているわけで、つまりは、この世界は実在していると信じているわけで、そのような実践は否認以外の何ものでもありません。

否認するならば、自我の分離の思考体系を保持しているにしかすぎません。

それが意味するのは、「この世界は幻想である」といくら知的(形而上学的)に知っていたとしても、何の役にも立たないということです。

私たちはこの世界が実在していると思っているわけで、そんな私たちがどんなに「幻想だ、夢だ」としていったところで、ほとんど意味をなさないということです。

そう、今や幻想世界にいる私たちにはこの幻想世界の中で学ぶべきこと、そして訓練していくべきことがあるのだということです。


学びが深化しているとき

私たちは、何を学び、何を訓練していく必要があるのか?

テキスト18章には「Ⅶ.私は何をする必要はない」というタイトルのセクション(節)があります。

それはあくまでも正しい心(聖霊)の視点から見た場合、ということです。

そのように見えていないのであるならば、私たちはその視点から見る訓練をしていく必要があるということです。

正しい心、つまり聖霊(イエス)はどの視点から、どのようにこの世界や私たちを見ているのか?

私たちはそのことについて学んでいくだけなく、修得していかなければならないのだということです。

そして、その目的で生きはじめるとき、この世界、この人生は、この身体、そして他者(兄弟)は、その目的のために使われていくことになります。

そのように目的が変わることによって、この世界や、この身体、兄弟、時間、といったものがこの世界から目覚めていくための学習手段として聖霊によって使われていくことになります。

ですから、この世界や、この身体、兄弟、時間、といったものを否定していく実践なのではないのです。

むしろ、それらを使っていくのだということを覚えておきましょう。

この世界は幻想だ、夢だとして否定していったところで、勝手に幻想(この世界)が消滅するわけではないということです。

じつのところ、私たちはこの世界を幻想(虚偽)というふうにはまったく見てはいません。

だとしたなら、その知覚を訂正していく必要があるということです。

そうしていくとき、この世界は、そのレッスンをしていくための学びの場の「教室」となっていきます。

私たちは、学ぶ(修得していく)べきものがたくさんあるのです。

なぜなら、私たちはそれらを忘れてしまったからです。

そのためにもコース形而上学を繰り返し学んでいくことは欠かせません。

繰り返し学んでいくことで、浅いレベルの理解からさらにより深い理解へと落とし込まれていくことになります。

そう、以前の理解よりもさらにより深いレベルで理解されるのを実感するとき、それまでの自分は分かっていなかったことを理解していくことになります。

コースの学びはそのようにして深化していくのだと知っておくと良いでしょう。


繰り返し学んでいくことの大切さ

コースの学びにおいて大切なことは、コース形而上学を繰り返し学んでいくことだといえます。

それはしっかり明瞭に理解されるまで、繰り返し学ばれる必要があるということです。

そうでないかぎり、私たちはコースが教えていることの真の深遠さを理解することはないでしょう。

というのも、コースの教えは難解であるがゆえに、ついコースを曲解して学んでいってしまったり、私たちはコースの言葉を知的理解として学んでいくので自分の都合のいいように解釈したりするからです。

それがいけないということではなく、だからこそ繰り返し学んでいく必要があるわけです。

そうするならば、たとえ仮に、コースを自分にとって都合よく勝手に解釈したり、その実践を自分のやり方で勝手に歪曲してしまったとしても、学びが深まっていくごとにその修正がなされていくことになります。

言い換えるなら、コースの理解が深まっていくつれて、自我の思考体系からはけっして知り得ない実相世界への(学びの)階梯がみえる(わかる)ようになっていくと言うことができます。

その階梯はまったくフワフワしたような曖昧なものでもなく、神秘なものでもありません。

それは確かな階梯であって、私たちはその階梯を上っていくことが求められているのです。

もしコースを学んでいながらも階梯を上っているという実感がなかったり、階梯がまだはっきりと見えていないのであるならば、コースが正しく学ばれてはいないと言うことができるでしょう。

それが正しく学ばれていくならば、必ず、実相世界への階梯が見えてくる、ということを知っておくべきです。

学びの階梯を上っていくとならば、その知覚がまったく変容していきます。

この世界が、自分の人生が「教室」として知覚されるようになっていくのはもちろんのこと、その知覚はもはや個人的なものを超えた「一なる心」としての知覚にシフトしていくということを知っておくと良いでしょう。

話を戻すならば、

私たちが覚えておかなければならないのは、コースの実践は、この世界やこの人生で自分が経験していることをただやみくもに幻想として否定していくような実践ではないということです。

この世界やこの人生での経験を、むしろ、学びのレッスンための「教室」として使っていくということです。

そして、そうなっていくとき、知覚、自己認識(アイデンティティー)、思考体系といったものがこれまでとはまったくちがったものへとシフトしていきます。

具体的なところでいえば、個人としての自分がコースを学んでいるのではなく、心の(決断の主体の)自分が学んでいるのだという自覚/認識が芽生えてきます。

私たちがコースの道を歩んでいく上で知っておくべきことは、そこからが本格的な学びの階梯を上っていくプロセスのはじまりなのだということです。


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