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今(プレゼンス)という聖なる瞬間


見ないでいることにより、幻想が保護されている

非二元のスピリチュアリティでは、私たちが体験している苦痛や苦しみは幻想(夢)であると教えてくれています。

だとしても、私たちにとってはとてもリアルなものです。

例えば、ネガティブな感情(不安や不平不満)を感じているとして、それが幻想だとはとうてい思えるものではありません。

言い換えるなら、だからこそ、私たちはそれらを直視しなければならないということです。

幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。(T-11. Ⅴ.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社

幻想を直視するとは、幻想に対して疑問視するということです。

なぜ疑問視していかなければならないのか?

というなら、私たちはすでに幻想を信じてしまっているからです。

私たちがこの世界で経験していることのすべて、知覚しているものすべて、そして内側で体験していることのすべて、それが感情であれ、感覚であれ、そのすべてが愛を遮っている障壁、つまり、幻想なわけです。

それらはすべて幻想であるにもかかわらず、私たちはそれらが実在していると信じて疑いません。

だから、その一つ一つを疑問視する必要があるのです。

本気でそれらを疑問視していくとき、そのとき私たちは、「一歩下がって」という実践をしたことになります。

いわゆる、自分の考えや自分の知覚を信じることをやめたということです。

そう、それが自我を教師とするのをやめて聖霊を教師として招き入れたということなのだということです。

ちなみに、ワークブックレッスン20とレッスン21の「私は真に見たい」「私は別の見方で見たい」というレッスンの内容はそういう意味だということを知っておきましょう。

私はぜひとも真に見たい。(W-pⅠ.20)
私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。(W-pⅠ.21)

奇跡講座/中央アート出版社


苦痛、苦しみをどちらの教師と共に見るのか

精神的、肉体的な苦痛や苦しみは、それがたとえ幻想であるとはいえ、私たちにとってはとてもリアルなものです。

でも、私たちが覚えておかなければないのは、知覚している苦痛や苦しみを目的で捉えていくということです。

つまり、「この世界は実在している」「自分はこの肉体である」と信じ込ませるために、その証拠として苦痛や苦しみを使っているということに気づいていくということです。

そう、誰が誰に信じ込ませているのか?というなら、自分で自分にそう信じ込ませている以外の何者でもありません。

それによって、私たちは神(天国)ではない体験が可能となっているわけです。

まさか、自分で苦痛や苦しみを使って、そういうことをしているとは思いもよらないことです。

なぜならそれは、まったく自分では自覚していない「心」の自分がしていることだからです。

私たちは、その「心」を忘れた状態になってしまっています。

ですから、コース学習者である私たちは赦しの実践を通して、「心」である自分(真のアイデンティティー)を自覚/認識していくことを目指しているのだということです。

コースではそれを、忘却のベールを超える、という言い方をします。

私たちはこの幻想世界を超えて、そして個人的自己を超えて、「心」を思い出していくことが求められているのだということです。

「心」の自分はまったく個人を超えたものです。

その「心」の自分が自覚/認識されていくとき、苦痛や苦しみは個人的なものではないということが分かってきます。

自分で自分自身を傷つけている夢を見ているにもかかわらず、それを外側の世界に投影し、私たちそれぞれがこの世界で個人的に体験しているのが、苦痛や苦しみの正体なのだということです。

つまりは、すべてが「心」の自分が自分を傷つける幻想(夢)を見ているだけなのだと。

そういうことが学びと実践を通して、体験的な理解として腑に落ちていきます。

つまり、病んでいるのは「心」の自分であり、癒されるべきはその「心」の自分であるということが自覚されてくるわけです。

コース形而上学に基づいて自分の内側を探索していくならば、つまり、自分の内側に正直になっていくならば、そのことが明らかになっていきます。

そのようにして、すべての真実を知っている正しい心の自分、それを聖霊と呼んでいるわけですが、その正しい心の部分がますます開かれていくことになります。

そう、その実践をコースでは「赦し」と呼んでいるということです。


肉体的苦痛を超えて聖なる瞬間に入っていく

肉体的苦痛について、私たちはどのように向き合えばいいのでしょう?

そう、肉体的な苦痛に対しても、私たちは「赦し」の実践ができます。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pⅡ.1.4)

奇跡講座/中央アート出版社

実際に、じっとして静かになって苦痛、苦しみをありのままに直視していくとき、ほんの一瞬(ひととき)ですが、それらが消えるのが体験されます。

その瞬間、肉体である自分も消えています。

ただ感覚だけがあります。

その瞬間、「いま(プレゼンス)」という聖なる瞬間に入っていくことになるわけです。

でも、もう次の瞬間にはすぐに肉体である自分に戻ってきてしまうわけですが、そのような実践を通して気づかされることは、自分は「肉体の自分」を信じていたいし、この世界を実在させていたいのだ、ということです。

つまり、苦痛を実在化させていたいし、それによって個の自分として存在したいのだということを自覚するわけです。

言い換えるなら、自我にしがみついたまま、イエス、聖霊を拒絶し続けている自分を痛切に自覚させられることになるといえます。

そう、その自分(自我)を咎めずに見ていくことが、コースの実践で私たちに求められているということです。

自我を咎めずに見ることによって、自我はそのパワーを失っていきます。

それと同時に、

自我との同一化から離れたところにいるもう一人の観察者の自分を自覚していくようになります。

その観察者こそが「心」の自分であり、それが私たちが思い出していくべき真のアイデンティティーです。

私たちがしていく実践とは、そういうものだということを知っておきましょう。


原初の瞬間、時空を超えた永遠なる瞬間

結局、コースの実践は、

知覚しているものをどちらの教師と共に見るか?

いわゆる、

自我の教師と共に見るか?聖霊の教師と共に見るか?

という選択なのだと言うことができます。

自我を教師としているときには、自分は肉体と同一化しています。

もちろん、その代償として苦痛、苦しみを経験することになります。

一方、

聖霊を教師とするならば、自分は「心」であることを自覚しています。

その「心」の自分は、知覚しているものすべてが虚偽だと分かっており、平安と共にそれらを眺めています。

それを、「真の知覚」「聖霊のヴィジョン」と呼んでいます。

赦しの実践を通して、そのような知覚がもたらされていくわけです。

そうしていくとき、その選択は常にこの「今にあることを認識するようになっていきます。

この「今」こそが、原初の瞬間であり、聖なる瞬間の入り口だと分かってくることになります。

「今」とは、過去、現在、未来というリニアな時間軸上ではない今であり、時間のはじまりと終わりの今、時空を超えた永遠なる今です。

自分は、いつのときも、その「今」にいることが自覚されていくのです。

毎瞬毎瞬が、原初の瞬間(いまここ)にいるだけなのだということが体験的に理解されてくるわけです。

その自分は、もはや時間を超えた存在であり、この時空の外にいることが分かっています。

ようするに、赦しの実践をしていくことによって、時空の外に居るその自分こそが本当の自分(真のアイデンティティー)なのだということが分かってくるということです。

そう、その本当の自分を思い出していくのが、このコース(奇跡のコース/奇跡講座)の訓練の目的なのだということをしっかり理解しておきましょう。


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