分離が終わるとはどういうものなのか
学びと実践に曖昧さと妥協がなくなっていく
当然といえば当然ですが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まっていくにつれて、その学びと実践に曖昧さと妥協がなくなっていくといえます。
言い換えるなら、
自分は何者で?
自分はここで何をしているのか?
ということに、より自覚的になっていくといえましょう。
つまりは、「自分は人間である」「自分はこの世界に居る」と信じていること自体が、神を攻撃しているということであり、さらにいえば神を殺害して、神の子を十字架に掛けているのだということに、いつも気づいている状態になっていくということです。
いわゆる、自我に気づいている状態になっていくわけで、それをコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、聖霊と共に見ている、聖霊を教師としているという言い方をします。
そして、その状態のことを「心を自覚した状態(マインドフルネス)」と呼んでいますが、それを完全に修得すること、つまり、心の自分を完全に思い出すことがコース学習者が目的としているものだと言うことができます。
自分たちは、毎瞬毎瞬、ここで何をしているのか?
それを自覚/認識するようになるなら、そして、その代償をも認識するようになるなら、誰もがその学びと実践をより深めていこうとするでしょう。
私たちがそうしないのは、自分たちが何をしているのか?そのことを分かっていないからということです。
つまり、学びと実践を妥協することがどういうことなのか?私たちは分かっていないだけなのです。
だからこそ、私たちは学ばなければならないわけです。
ちなみに、妥協することがいけないわけではありません。
ついつい、その学びと実践に妥協しようとする自分(自我)を自覚/認識していくことです。
その自我を咎めずに見ていくことです。
それが重要なのだということです。
自我を、そして、自我がしていることを赦すということです。
それによって、自我との戦いが終わっていくことになります。
自我との戦いが終わるとき、そこには平安があります。
そのようにして、自分自身との戦い、自分の人生との戦いが終わっていきます。
そのようにして、分離が終わっていくということです。
分離が終わるとはどういうものなのか?というなら、
自と他の区別がなくなるということです。
自分(主体)と世界(客体)の区別がなくなるということです。
つまり、自と他の共通の利害を生きるようになるわけで、それを生きる者を神の教師と呼んでいるわけです。
そう、それがコースの学びを通して私たちがなっていく生き方、在り方であるということを知っておきましょう。
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