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幻想と真理の境界線


選択肢は二つしかない

「人生の目的」と言うとき、一見、この世界には人生の目的がいくつもあるかように見えます。

その選択肢はたくさんあるかように見えるわけです。

ですが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、そのどれもが無益で無意味な旅で終わらせるものでしかないと教えてくれています。

さらに、コースは、それらの目的とはまったく別の目的でこの人生を生きる(見る)ことができるのだとも教えてくれています。

コースの観点からみたならば、ここ(この世界)には目的は二つしかありません。

一つは、どこにもたどり着くことのないまったく無益な、価値のない人生とするのか?

もう一つは、この世界の夢から目覚めていくための人生とするのか?です。

つまりは、コース学習者の私たちがこの世界を見るとき、この人生を生きるとき、

自我の目的か?聖霊の目的か?

その二つの選択肢しかないというということです。


この世界においては、残されている唯一の自由は選択の自由であり、それは常に二つの選択肢の間で、すなわち、二つの声の間で為される選択である。(C-1.7:1)

奇跡講座/中央アート出版社


自我の目的でこの人生を生きるとするなら、(つまり、普段の私たちはまさにそのように生きているわけですが、)この人生にはまったく意味がないということです。

なぜなら、この人生はどこにも向かわないただの夢(幻想)にすぎないからです。

真理から見るならば、悟りの視点から見るならば、それは明らかです。

それが、多くのノンデュアリスト(非二元論者)のスピーカーさんたちが語っていることです。

とは言いましても、コース学習者の私たちが実践していくにあたって知っておかなければならないのは、このコースは人生を否定していくような実践をしていくような霊性の道ではないということです。

コースのイエスは、 私たちが知覚しているもの、経験しているものを、否定するようには求めていないということです。

それらをどちらの目的で見るか?の選択が、私たちに求められているのであり、それがコースの実践でしていくことなのだということです。

そしてそれが、コースの実践における特徴的なところだといえます。

これまでの目的のままのほうを選択しているならば、苦痛、苦しみ、攻撃、裁き、競争、死など、さまざまな問題を避けることはできません。

一方、もう一つの別の目的のほうを選択し直していくならば、この世界で知覚しているもの経験しているものそれらすべてを使って、それらを超越していくことになるだけでなく、この世のものではない愛、平安に触れていくようになります。

さらにいえば、この世のものではない愛、平安に触れていく経験を重ねていくならば、この世のものではなく、この世を超えたもののほうをますます望むようになっていきます。

ようするに、その学びと実践がますます妥協のないものへとなっていくことになります。

そのようにして私たちが聖霊の目的を選択し直していくことで、やがてはこの世界の夢から目覚めていくことだけ、それだけを望むようになるということです。


恵み深く単純な学びの宇宙が、あなたの前に開かれる。真理を目の前にして、あなたが後ろを振り返ることはないだろう。(T-14.Ⅱ.6:4-5)

奇跡講座/中央アート出版社


そうなっていくとき、この世界、この人生は、無益で無価値であったものから、学びの場としての「教室」となっていきます。

いわゆる、幸せな学習者(T-14.Ⅱ)になっていくということです。

この世界の見方、この人生の見方、考え方が、これまでとはまったくちがった知覚になっていくということです。

それを、「思考体系のシフト」「知覚のシフト」と呼んでいます。

それは、まさに思考の逆転というふうに言うこともできます。

私たちは目的を変えることによって、この世界をまったくちがったふうに知覚していくことができるのだということです。

そう、コース学習者の私たちはその知覚を修得していくことを目指しているということです。


自我の目的から聖霊の目的へ

上記に述べた通り、この世界を知覚している私たちにとって、

この世界をどう捉えていくのか?

そこには、二通りの見方(知覚)があるのだということです。

一つは、自我の目的で見る見方、

そして、もう一つは、聖霊の目的で見る見方です。

自我の目的は、この世界をリアルに実在させておくことです。

一方、聖霊の目的は、この世界の夢から目覚めていくことです。

そして、私たちは自我の目的から聖霊の目的に変えていくことによって、この世界、この人生を、聖霊の目的で知覚するようになることを目指しているわけです。

それは、どのような知覚へと移行していくのか?

というなら、

すべてが目覚めていくためのレッスンとして知覚されるようになるということです。

つまり、この世界がそのレッスンの場としての「教室」として知覚されるようになるということです。

そうなるとき、もはや知覚するものすべてが「愛の表現か」「愛の呼びかけか」というものになっていくということを覚えておくと良いでしょう。

また、それこそが聖霊(イエス)が知覚している見方であることも知っておくと良いでしょう。

そのように見えているなら、もはや、愛で応答するほかありません。

そして、最終的に私たちは、聖霊の知覚を完全に修得することをゴールとしているということです。

コースではそれを「贖罪」と呼んでいます。

贖罪とは、「分離は起きていない」ということを完全に受け入れることを意味します。

そうなるとき、知覚しているすべてが幻想(非実在)だと知覚しているだけでなく、自分はこの世界にいないということも自覚/認識しており、真の自己(アイデンティティー)はこの世界(時空)の外側からこの世界の夢を眺めていることを完全に思い出しています。

何度も申しますが、その状態を完全に修得(マスター/体現)することが私たちコース学習者が目指しているものです。

コースは、そのための道すじをはっきりと示してくれている霊性の道だといえましょう。


真の選択肢

この世界の夢に振り回され続けたいのか?

それとも、

この夢から目覚めて本当の自分を思い出していきたいのか?

私たちは、この今も毎瞬毎瞬、その選択肢にいるのだということです。

さらには、毎瞬毎瞬、その選択を行っているのです。

そして、常に、前者を、つまり、この世界の夢の被害者になることを選び続けています。

ちなみに、その選択は心の(無意識の)レベルにおいて行われており、まったくと言っていいほど自覚されていないのです。

私たちはまったくそのことに無自覚な状態になっています。

私たちはその選択肢があることすらもまったく認識していません。

ぞの選択肢があることすら忘れて、この世界のことに、人生のドラマに没入してしまって囚われの状態になっているのです。

この世界にいる私たちはそのような状態になってしまっているわけですが、でももし、その選択肢を認識することができるなら、誰もがこの世界の夢から目覚めるほうを選択することでしょう。

その選択肢とは、幻想と真理の境界線のことです。

それがどこにあるのか?

私たちは忘れてしまっているだけなのです。

わからなくなってしまっているだけなのです。

だからこそ、私たちはその境界線を思い出す必要があるのです。

そして、そのために私たちはコースを学び、そして実践しているのだということを知っておきましょう。


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