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コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は厳しい霊性の道?それとも優しい霊性の道?


コースの教えそのものに妥協がないからこそ

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の中には、「ワプニック博士の解説は妥協がなさすぎて厳しい」と感じておられる方々がけっこうおられるのではないでしょうか。

でも、実際は、ワプニック博士は厳しさの真反対であるどころか、私たちコース学習者がどれだけ不真面目なコース学習者だとしても寛容さを備え持った教師であると言うことができましょう。

彼の解説が厳しく思えてしまうのは、コースの教え自体がそのようなものであるからだといえます。

ワプニック博士は、コース(テキスト、ワークブック、教師のためのマニュアル)に書かれてあることを、そのままただ解説してくれているだけです。

実際、ワプニック博士が解説する理解のもとにテキスト、ワークブック、教師のためのマニュアルを読んでみると、ワプニック博士の言葉はもともとコースの中に書いてあった内容だったということに気づかされることがよくあります。

つまり、私たちが特に見落として、スルーしてしまいがちな内容について、ワプニック博士はただ忠実に伝えてくれているだけだったということが分かるわけです。

ワプニック博士の解説するコースが厳しいと感じるということは、つまりそれだけコースを学ぶことに対して抵抗しているのだと言うことができます。

コースを学びたくない、理解したくない、ということです。

それがいけいということではなく、むしろ、「学びたくない」「難しい」と感じるそれこそが、自我の抵抗(防衛)なのだということを私たちは自覚/認識しなければならないということです。

その抵抗は、私たち誰もの中にあるのです。

なにせ、その抵抗は自覚されていない私たちの無意識の部分に隠されているので、自分は本気でコースを学んでいると思っていたとしても、実際は、さまざまなかたちで学ぼうとすることに防衛しようとします。

なので、その無自覚の抵抗(自我)を意識化して自覚していくことが、コース学習者の私たちに求められているのです。

(もちろん、そのためにはワプニック博士が解説する教材で学んでいくことをお勧めします。)

自我の防衛(抵抗)を自分の中に自覚/認識していくことが重要なのだということを知っておきましょう。

そうすることで、私たちはコースの学びをよりスムーズに進めることができるといえます。

自我の抵抗に気づいていくこと、そして、それを咎めずに見ていくならば、自我(の抵抗)はその力を失っていきます。

そのような実践的なところを、ワプニック博士は私たちに解説してくれているのです。

コースで述べられて内容は、この世界の夢から真に目覚めたい、そして神のもとに帰りたいと望む私たちにとって、そのために私たちが学ぶべき必要なことが述べられているにすぎないということです。

ワプニック博士が「妥協がなさすぎる」「厳しい」ということなのでもありません。

むしろ、私たちは学ぶべきものであるにもかかわらず、それ対して妥協したくなる誘惑のほうに警戒すべきだといえるでしょう。

妥協することがいけないということではありません。

妥協して学ぼうとすることがどういうことなのか?ということに自覚的にならなければならないということです。

妥協するということは、「自分は神のもとに帰りたくない、自分は苦痛、苦しみの夢を見続けていたいのだ」と宣言しているのだということです。

そのことを自覚していくなら、その自分(自我)がいかに狂っているかを認識することができるようになっていきます。

苦痛、苦しみでしかないこの世界の夢から本気で目覚めていきたいのであるならば、「ワプニック博士が教えるコースは厳しい、難しい」ということなど理由にならないということです。

コースを本当に学んでいきたいのか?そして本当に理解していきたいのか?

その意欲があるのか?

それこそが、コース学習者である私たち全員に問われるべきものだといえましょう。


むしろコースは優しい霊性の道である

もう一度申しますが、コースの学びにけっして妥協してはいけないということではありません。

むしろ、コースのイエスは、最初から私たちが妥協することなく実践していくことなどできないと知っています。

私たちがコースが教えている通りにはできないという前提で、三部作(テキスト、ワークブック、教師のマニュアル)を通して、私たちがどのような学びと訓練をしていけばいいのかについて、コースは詳しく述べられていると言うことができます。

まだまだ訓練が成されていない私たちにとっては、むしろ、妥協しながら学んでいくほかないということです。

進歩した神の教師でないかぎり、妥協しないということなどできるわけがないのです。

コースのイエスは、そのことを重々承知して、以下のようにも述べているわけです。


時期尚早に奇跡に接すると、パニックに陥るかもしれない。(T-2.Ⅳ.4:9)

奇跡講座/中央アート出版社


最初から私たちが妥協しないで学びを進めていくのは不可能という前提で、コースのイエスは私たちを優しく導いてくれているということです。

というのも、私たちは、神の愛を、真理を、目覚めることをひどくを恐れているからです。

その恐れ、罪悪感を増大させることが、私たちにとってもっともやってはいけないことなのです。

そもそもが恐れ、罪悪感を取り消していく道であるにもかかわらず、もし恐れ、罪悪感を増大させるとしたなら、何のためのコース学習か!?ということになりかねません。

コースのテキスト2章のセクションⅣ「恐れからの解放としての癒し」の後半のあたりにも、そういうことについて書かれてあります。

ワプニック博士もこう云っています。

「私たちは、妥協せずに、魔術を使用せずに、この世界で生きていくことは不可能です。ですから、妥協しながら、魔術を使いながら、コースを学んでいきなさい!実践していきなさい」と。

とは言いましても、(コースのイエスは私たちを優しく導いてくれているように、)コースは他の一元論のスピリチュアリティと比べるなら、優しい霊性の道だと言うことができます。

他の一元論のスピリチュアリティでいうなら、神との直接的な合一を目指しているわけです。

でも、じつのところ、私たちは、神のもとに帰ること、つまり、この世界から目覚めることをひどく恐れているわけです。

ですから、私たちはこのコースの学びと実践を通して、間接的なアプローチを取っていくのだということを覚えておきましょう。

つまり、恐れ(罪/罪悪感)といった障壁を見つけ出して、それらが虚偽であることを思い出していくことをしていくということです。

「恐れは幻想であり、恐れは実在しないのだ」と。

そして、それを受け入れることがコースでは「贖罪」と呼んでいるものであり、コース学習者の私たちが目指しているゴールだといえます。

そう、コース学習者の私たちは、贖罪を経由して神のもとに帰る、という間接的なアプローチを取っていくということです。

そういう意味で、他の一元論のスピリチュアリティと比べて、コースは優しい霊性の道(スピリチュアリティ)であると言うことができるわけです。

「恐れはない」ということを悟るまで、つまり、「贖罪」を受け入れられるまで、私たちは知覚の訂正をしていくということです。

たしかに、コースの教えそのものには妥協はありません。

とはいえ、(他の一元論のスピリチュアリティと比べたなら、)それは、穏やかなプロセスを経由して神のもとに帰って行く優しい霊性の道なのだということを知っておくと良いでしょう。


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