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恐れとどのように向き合っていけばいいのか?どのようにして恐れを超越していくのか?


誰もが神の愛を恐れている

私たちは、「自分はこの世界の中に居る」と信じています。

そして、この世界をそのように知覚しています。

それがどういうことなのか?

というなら、

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、この世界に居るということ自体、もっといえば、この世界を知覚しているということ自体が、神(の愛)を恐れているということなのだということです。

そうでないならば、私たちは今この瞬間にでも実相(天国)に目覚めることは可能なのだということです。

つまり、この世界に居る人たちはみんな、神の愛を恐れてこの世界を知覚しているということです。

ただし、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びが浅い段階においては、私たちが神の愛を恐れているということに、まったくと言っていいほどピンとこないことでしょう。

なぜなら、そのことは私たちの無意識の中に隠されているからです。

でも、コースの学びが深まっていくにつれて、そのことが否定できない真実として認識されていくことになります。

言い換えるなら、コースの学びが進んでいくにしたがって、無自覚/無意識に隠されていたその「恐れ」が顕わになってくるということです。

ようするに、コースの学びのプロセスにおいて、もっと言えばこの世界を超えていくプロセスにおいて、必ず、根源的な「恐れ」と向き合っていくことになるということです。

その「恐れ」こそが、じつは、神の愛に対する「恐れ」なわけです。

その「恐れ」は、この世界にいる誰しもが内側(無意識の中)に隠し持っているものだということです。

私たちはその「恐れ」を外側の世界のあらゆる形態(かたち)に投影することで、一時的に回避しているだけといえます。

そのことを自覚していようが自覚していまいが関係なく、この世界にいる誰もが「恐れ」を内側に隠し持っているということです。

その「恐れ」とは私たち誰もの根底にあるものであり、さらに言えば、それは個人的なものではないということです。

それを、「存在論的恐れ」と呼んでいます。

ただ、それは、この世界(忘却のベール)によって隠されて(否認されて)いるといえます。

ですから、コースの実践ではそれを明らかにしていくだけでなく、さらには訂正して(取り消して)いくことが私たちに求められているということです。

というのも、神の愛を恐れていないならば、すでに実相世界を知覚しているはずだからです。

そうでないということは、神の愛をひどく恐れているということであり、ならば、それを訂正していく必要があるということです。

私たちはその「恐れ」を直視して、そして取り消していかないかぎり、神の愛を体現していくことはあり得ないということを覚えておきましょう。


恐れとどのように向き合っていけばいいのか?

では、私たちはどのように「恐れ」と向き合っていけばいいのでしょう?

まず言えることは、コースの実践のはじめの段階においては、恐れを直視することはとうてい無理だということです。

もちろん、コースのイエスは(ワプニック博士も)そのことを重々承知の上で、私たちを優しく導いてくれているというのは言うまでもありません。

なので、まずは、恐れと向き合いたくない自分、恐れから逃げ出そうとしている自分、恐れを避けようとする自分、それを自覚/認識することです。

その自分(自我)は神の愛を恐れているということを明らかにすること、そして、その自分(自我)を咎めずに見ていくのです。

自我は恐れを直視しないことによって、恐れを保持しておこうとします。

そう、本当は「恐れ」を大事に持っておきたいのです。

つまりは、私たちは恐れていたいわけです。

なぜなら、それによって、この世界や、この肉体や、個人の自分の実在性を保持することができるからです。

つまり、私たちが本当に恐れているのは、この世界、この肉体、個人の自分、、、それらが消滅してしまうことを恐れているのだということです。

それを私たちは神に対する恐れとして、神に投影しているだけなのです。

そして、その「存在論的恐れ」こそが、コースの実践で私たちが直視していくべきものであり、訂正されるべきものなわけです。

そのためには、まずはその(存在論的)恐れを認識したなら、恐れている自分を咎めることなく、受け入れていくことです。

そうしていくにしたがって、少しづつ、私たちは恐れを正視することができるようになっていきます。

当然、コース形而上学を学んで、そして根付かせていくことも怠ってはなりません。

なぜなら、その形而上学こそが私たちを正しい知覚へと誘ってくれる土台となるものだからです。

それは、地道な学びと訓練によって修練していくほかないのだということです。

恐れを正視するとき、さらにそこで大事になってくるのは、その「恐れ」に対して自分でどうのこうのしないということです。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。 (W-pII.1.4:1)

奇跡講座/中央アート出版社

それは、恐れと戦わない、ということです。

もし恐れをどうにかしようとするならば、恐れに力を与えることになり、その恐れはさらに増幅していくことになります。

そう、自分ではどうすることもできないということを実践を通して学んでいくことになります。

どうこうしようとする自分は自我であり、その自分は「恐れ」をすでに実在させてしまっています。

だからこそ、「イエス」「聖霊」という自分を超えたシンボル(象徴)が不可欠となるのだということです。

イエス、聖霊は、その恐れは、「無」「幻想」だと知っています。

私たちがしていく実践では、その教師と共に恐れを直視するだけなのです。

癒しとは、智識の前に立ちふさがるすべてのものを取り除くこと以外の何だろう。そして、幻想を保護せずに直に見つめること以外にどのようにして幻想を一掃できるだろう。だから恐れてはならない。あなたがこれから見ることになるのは恐れの源であり、あなたが学びはじめているのは、恐れは実在しないということだからである。(T-11.Ⅴ.2:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちが自覚しなければならないのは、すでに恐れを実在させているということです。

それゆえ、「恐れは実在しない」ことをイエス、聖霊という教師から学ぶ必要があるわけで、そのための訓練として、イエス、聖霊と共に見るということをしていくわけです。

結局、それがコースでいうところの「赦し」なのだということです。

そして、私たちがコースを学んでいるのは、その「赦し」について学んでいるのであり、最終的にはその「赦し」を完全に修得していくことを目的としているということです。


私たちは恐れについてもっと知る必要がある

コース学習者の私たちが覚えておかなければならない重要なことは、私たちは「恐れ」を通り抜けて、その向こう側の真理に到達しようとしているのだということです。

言い換えるならば、「恐れ」を通り抜けていかないかぎり、真理に到達することはけっしてあり得ないということです。

それは、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学習者にかぎらず、真理の探究者、非二元を探究する者にとって、この世界の夢から目覚めていこうとする者であるならば、誰もがそのことをしっかり肝に銘じておく必要があります。

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