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自我の告白


自我について知ることは、自分を知ること

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者の私たちがしていくべき実践は、自我を咎めずに見ることだと言うことができます。

「咎めずに」とは、ありのままに、ということです。

それをコースでは、「聖霊と共に見る」という言い方をします。

つまり、私たちは自分自身の内側を直視(正視)していくことが求められているということです。

そう、自分の内側に正直になって観察(正視)していくとき、自分は自我である(自我と同一化している)ことが認識できるようになっていきます。

ただし、それはけっして個人的なものではないということも知っておく必要があるといえます。

一なる心が、つまりは、この世界の中の誰もが自我と同一化した状態になってしまっているということです。

なので、自分を知るならば、この世界のいる私たちを知ることにもなるのだということを覚えておくと良いでしょう。

そう、それはあなたのことであり、私たちのことなのです。

自我がしていること、つまり、自分がしていることについて明かすならば、以下のように狂言することができるでしょう。


「私」=自我の本音

「私」は自我です。

「私」は、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶ気持ちはあっても、じつのところ、本気で学ぶ気もなければ、もちろん、目覚める気などさらさらありません。

一応、コースを学んではいますが、それは、ただたんに学んでいるつもりになっているだけで、その本心は、やっぱりこの世界の夢を終わろうという気などさらさらありません。

というのも、もし本当にその気があるなら、すでにこの世界を「教室」として捉えて、日々、コースの学びと実践に励んでいるはずだからです。

もしそうであるならば、わが家に帰ることに対して、喜びと祝福に満ち溢れながらコースの学びと実践に励んでいるはずです。

本当にわが家に帰る気があるのなら、その学びと実践を怠ることなどしないはずです。

でも、自分に正直になるとき、「私」はまったくそうではないことに気づかされます。

コースを学ぶ気はあっても、形態の上ではコースを学んでいるつもりではいても、でもじつは、さらさら目覚める気などないのです。

それが、「私」=自我の本音です。

なぜそうなのか?

というなら、

この「私」こそが自我であるからです。

この「私」こそが、本当は、自らがでっち上げた嘘の自分なのです。

「私」はこのニセモノの自分ままでいたいのです。

では、なぜコースを学ぶのか?というなら、そこには「目覚め」という真の幸福と真の喜びがあるという神秘性に惹かれているだけで、本当に「目覚め」を求めているのかはじつに怪しいものです。

そんなことよりも、「探せよ、されど見つけることなかれ」というゲームを続けていたいのです。

自我の「私」は、コースというスピリチュアリティですらも、そのために利用しようと思っています。

とりあえず形的にもコースを学んでいれば、「私」の知的欲求を満たしてくれるし、神聖なつもりになることができます。

別にこの世界から目覚めなくても、一時的にも平安になれるなら、幸せになれるならそれでいいと思っています。

この世界から目覚める気はさらさらないけど、幸福になりたいし、満たされたいと思っているのです。

この世界の夢から目覚めなくても、それが叶えられると思っているのです。

この個人の「自分」がこの世界の中で一時的にでもそれなりに幸せ、平安でいられるならそれでいいわけです。

目覚めたい!なんてホントは名ばかりの建前で、じつは、この世界の中で幸せになりたいし、それが可能だと思っています。

そう、本当は目覚めたくないどころか、本当はコースも学びたくないのです。

本当に学んでいくなら、この世界が夢(非実在)だと分かる、、、この「私」も実在していないと分かる、、、でも、それはイヤなのです。

本当に目覚めてしまうなら、この夢もこの「私」も終わってしまう、、、「私」が消滅してしまうことは何よりも恐怖で仕方ないのです。

コースを本当に学んだなら、そして本当に理解したなら、この世界は実在しないと分かってしまうから、目覚めてしまうから、「私」はそれを恐れています。

だから、真にコースを学ぼうとするのだけはやめておこう、と。

真に学んだらなら、真実を見ることになるし、だから、それだけは絶対にやめておこう。

真実を見たくない。なぜなら、見たなら、嘘だと分かるから。

学びたくない。なぜなら、本当に学んだなら真実を見ることになるから。

目覚めたくない、、、だから、核心に触れるところはけっして学ばないでおこう、けっして触れないでおこう。

学んているとしても、実践はしないでおこう。

というのも、「私」は目覚める気などさらさらないからです。

「私」は、本当は目覚めたくないのです。


以上、自我が考えていること、自我がしていることについて述べるなら、まるでキリがありません。

でもそれが、この世界に居る私たちだといえます。

それが、私たちの真実です。

自覚しているしていないにせよ、私たち誰もが密かにその真実をひた隠しにしているのです。

そしてそれが、今や自我と同一化してしまって、自我になってしまった私たちの正体なのだということです。

その自分(自我)を否定していくのではなく、その自分(自我)を咎めずに見ていくこと、それがコース学習者の私たちがしていかなければならないことだと覚えておきましょう。


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