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聖なる瞬間の扉が開かれるとき

「裁き」から「赦し」へ

私たちが外側の何かや誰かを裁き、怒り、攻撃するとき、

外側には世界も無ければ、他者もいないわけで、

ならば、その自分はいったい何を誰を裁いているのでしょう?

その答えは、自分自身以外の何ものでもありません。

つまり、争い、戦いはただ自分の心の中で起きているだけなのです。

この世界は、それを外側に映し出しただだけの影にしかすぎません。

自分は自分自身と戦っているだけです。

自分は自分で自分を攻撃しているだけです。

自分は自分自身から離れていたいわけです。

その自分は、それが可能だと信じています。

その自分は、それは起こったと信じています。

それは、自分で自分に対して行っている危険な遊びでしかありません。

その遊びをはじめたのは自分であり、もちろん、終わらせるのも自分です。

ただ、自分は誰なのか?を忘れてしまった自分は、その遊びを終わることをとても恐れています。

なぜなら、その自分にとってそうなることはまさに死そのものであると信じてしまっているからです。

一方、それと同時に、そんな遊びなど不可能なことであり、はじめから何も起きていないことを知っているもう一人の自分がいます。

そのもう一人の自分は、今この瞬間も、その真実を思い出す瞬間を待っています。

その真実を知っている自分に一瞬でも触れるとき、すべてが嘘(虚偽)だったと思い出させてくれます。

それが、「赦し」「奇跡」と呼ばれているものです。


” 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。”(W.pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


その瞬間を、「聖なる瞬間」と呼んでいます。

聖なる瞬間とは、「それは狂気であり、それは虚偽である」と正気の自分に気づいているその瞬間のことです。

それは、まさに狂気の自分から正気の自分へシフトした瞬間だといえます。

その「聖なる瞬間」の扉は、いつも常に、今この瞬間に開かれています。

争いも、戦いも、自分ででっち上げた嘘(虚偽)だったことが明らかになるとき、そのとき、戦いが終わります。

ここに一切影響を受けることのない平安があります。

ここに神の平安があることを悟ることができます。

それが「赦し」であり、それが「贖罪」です。

裁きではなく、赦しへ。

分離ではなく、贖罪へ。

それが、私たちがコースの学びと実践を通して修得していくものです。

そのプロセスは、自分が誰であるか?という真のアイデンティティーを思い出していくプロセスであると言うことができるでしょう。


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