どうしても赦せないとき、赦したくないとき
攻撃、裁き、怒りがおさまらないとき
攻撃、裁き、怒りがおさまらないとき、その内側で何が起きているのでしょう?
その内側を観察するとき、以下のような自分を認識することができます。
まず、湧き出でくる怒りや攻撃を正当化しようとします。
そう、怒りや攻撃の正当性を立証するためにありとあらゆる証拠と理由を並び立てようとします。
あいつのせいだ!これのせいだ!と。
自分が間違っているとしても、その自分の誤りを絶対に認めたくないのです。
どんな手段を駆使してでも攻撃の理由を探して、それを正当化しようとします。
自分の誤りを認めようとはしません。
どうにか自分の誤りを認めないで済む方法はないか?と必死で考えようとします。
自分が間違っていることだけは絶対に認めないぞ!と強く決めています。
頑なにそれを決めている自分がいます。
一方、それと同時に、自分が間違っていることを心のどこかで薄々気づいている自分もいます。
でも、そうと分かっていながらも、どうしてもその誤りを認めることができないのです。
葛藤している自分がいます。
そして、そのことに対して罪悪感を抱いています。
自分が間違っていると分かっていながら、それが認められないのです。
その自分を、この自分ではどうすることもできません。
自分は葛藤をやめたいと望みつつも、どうすることもできません。
自分ではどうすることもできない。
どうにもならない。
何もできない。
私たちが覚えておかなければならないのは、自分で自分を正そうとするとき、そのようにして私たちは自分自身と闘っているのだということです。
それはまさに、自分で自分を傷つけている以外の何ものでもありません。
そのことを認識するとき、ようやく自分は聖霊(イエス)の助けが必要なのだと理解することになります。
自分にできることは、その自分を聖霊(イエス)に明け渡すこと。
それは、葛藤がやめられない自分をただ正直に認めるということです。
「私が間違っています」と。
それ以外に自分にできることは何もないと認めるのです。
それ以上何もする必要はありません。
ただじっとして、その自分と共にいるのです。
それが、自分自身との闘いを終える方法です。
あるがままの自分をただ受け入れていくのです。
それでいいのです。
そのままでいいのです。
そうなるとき、闘いが終わるのを経験するでしょう。
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