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なぜ生まれてきたのか?なぜ生きるのか?生きるとは?死とは?
コースを学んでいようがいまいが、スピリチュアルであろうがなかろうが
自分は誰で、自分はどこからきて、どこに向かうのか?
なぜ生まれてきたのか?なぜ生きるのか?生きるとは?死とは?
人生の本質に関わるそれらの疑問は、誰もの内側に共通してあるものです。
私たちは、その答えを探して、その同じゴールに向かって、この世界の中をさまよっていると言うことができます。
自分の本性、つまりは、私たちの本性を思い出すまで、その答え探しの旅をし続けているのが、この世界にいる私たちだといえましょう。
そんな私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩んでいくとき、その学びと実践を通して正しい心(正気/聖霊)の視点に戻っていく訓練を重ねていくことによって、その答えがもたらされていくことになります。
正しい心(正気/聖霊)の視点から見るならば、どんな人生であったとしても、そのプロセスはさまざまであったとしても、誰もが同じゴールに向かって歩んでいるということが分かります。
たとえこの世界でどのように生きようとも、そこには何の違いもないということが分かるということです。
そのように知覚されるようになるとき、この世界を、この人生を、そのゴールに向かうための「教室」として捉えるようになります。
つまり、それが「聖霊を教師とする」ということだといえます。
そのとき、この人生で体験していくことのすべてが自分の(目覚めの)ために起きているというふうに知覚されるようになります。
そして、自分だけでなく、この世界の誰もがこの「教室」において、それぞれの道(カリキュラム)が用意されているということが分かってきます。
それがスピリチュアルであろがなかろうが、そういうこととはまったく関係なく、誰もが自分(self)の決まった道(人生)を歩んでいるということが明らかになるということです。
この世界の中には、コースの教えに惹かれる人もいれば、まったくコースに興味も抱かない人だっているわけです。
それがスピリチュアルであろうとなかろうと、それがコースであろうとなかろうと、私たちはそれぞれ同じゴールに向かって歩んでいるということです。
イエス/聖霊はそのように見ていると言うことができます。
それは、それぞれがそれぞれのカリキュラムを与えられていると言うことができましょう。
結局は、それぞれが己の人生と真摯に向き合っていくほかないということです。
自分が経験しているその人生を受け入れていくほかないということです。
でも、コース学習者は、この人生を目覚めていくためのレッスンの場、つまり、「教室」としていくことができるのです。
なぜ生まれてきたのか?なぜ生きるのか?生きるとは?死とは?
その真実をあなたは知りたいとは思わないでしょうか?
しかも、それがあなたに完全なる自由と喜びと平安をもたらすものであるならば、この霊性の道を歩まないというわけにはいかないといえるでしょう。
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