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コースはスピリチュアルの旅の終わりへと向かわせるスピリチュアリティである

コースはスピリチュアルに属するものではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを深く理解するようになっていくと、このコースは心理学だという認識が強くなっていくといえます。

つまり、「コースはスピリチュアルのジャンルに属するものではない」と認識されてくるということです。

コースは、スピリチュアルではなく、まさに心理学であると。

それと同時に、他のスピリチュアリティがまるで稚拙なスピリチュアリズムに見えてくるようになるといえます。

なぜなら、それらが自我の思考体系が作り出した二元性のスピリチュアリティであり、いくら探究していったとしてもどこにも行きつかないスピリチュアリティでしかないということが分かるようになるからです。

それが、「求めよ、されど見つけることなかれ」という救済の真似事だと分かるということです。

ようするに、目覚めないスピリチュアリティを探究し続けること、もっといえば、目覚めないこと、それが自我にとっての救済なわけです。

ここで、コース学習者である私たちもわきまえておかなければならないのは、それは、コース学習についてすらもその例外ではないということです。

コースという非二元のスピリチュアリティすらをも、自我の隠れ蓑にするのだということです。

たとえば、コースというものをスピリチュアライズしていたり、つまり、スピリチュアルのジャンルのものと同様のものとして捉えていたり、あるいは、コースを神聖なものとしてしまっていたりするならば、もはやそうしてしまっているということです。

もしコースをそのようなものにしてしまうならば、つまり、スピリチュアルの延長でコースを学んでいくならば、「目覚めないためのスピリチュアリティ」「目覚めないためのノンデュアリティ」というものになってしまいかねないということです。

実際のところ、コースをそのようなものとして捉えてしまっているコース学習者のケースはけっして少なくはありません。

そのことを否定しているのではなく、自我はそのような学び方をするのだということを私たちは知っておく必要があるということです。

そのような学び方とは、「探せよ、されど見つけることなかれ」というような学び方です。

実際に、コースの学びが深まっていくとき、これまで自分はどれだけそのようなことをしていたかが認識されるようになっていくといえましょう。

コースの思考体系がしっかり理解されて、そしてそれが根付いていくとき、自我がしていることについて、そのどれもが一様に「まがいもの」「パロディ」として知覚されるようになるということです。

知覚の変容知覚のシフト、はそのように起きていきます。

それは、思考体系のシフトというふうに言うこともできるでしょう。

言い換えるなら、そうなっていかないかぎり、スピリチュアルの探究の旅が終わることはないでしょう。

もちろん、かくいう私も、長年、スピリチュアルの探究の旅をしてきたわけですが、今となっては、もはやその自分が愚かしくもあります。

それはスピリチュアリズムを否定するわけでもなく、ただ単に、まがいもの(似非)のスピリチュアル探究の旅をしていただけだったと気づくわけです。

それがけっして目覚めることのないスピリチュアルの旅であることが分かるなら、誰がそのような愚かな旅をし続けようとするでしょうか。

コースは、そういうことを認識させてくれるスピリチュアリティです。

結論としていえば、

コースという霊性の道はどのようなものか?

というなら、

それはスピリチュアルなジャンルに属するものではなく、それはまさに「心理学」であり、スピリチュアルの旅の終わりへと向かわせてくれるスピリチュアリティであると言うことができるでしょう。


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