個別性、特別性を超越していくために私たちがすべきこと
いまここの平安を避け続けている私たち
自分の内側を観察していくと分かることですが、思考はまるで止むことがありません。
いつも何かしらの思考を巡らせては、平安に留まることがありません。
言い換えるなら、いつも平安から逃れようとしているのが認識できます。
四六時中、過去や未来に思考が飛んでいるのが分かります。
「いま」ではないいつかどこかに思いを巡らせているのが認識できます。
つまりは、それが、自我と同一化している、ということなわけです。
つまり、自分たちは自我になってしまっているということです。
その自分(自我)は、「いま」に戻らないように、むしろ、そこから遠ざかろうとしています。
「いま」に戻るならば、静けき中心へと戻りことになり、そうするならば、この時間と空間というものが嘘(虚偽)であることが明らかになってしまうがゆえに、自我にとってはそれがとてもマズイことなわけです。
なので、自我は、過去や未来という時間と空間の中に留めておこうとするために、自ら想念(思考)をわき起こしているといえます。
そのことを自覚/認識していくとき、それらの思考はすべて自我の思考体系から湧き起こっているもの、つまり、自我の声だと気付けるようになっていきます。
そうするとき、私たちは、一日中、自我の声を聞き続けているということが自覚/認識されることになります。
その自分は、常に、何かしなきゃ、どうにかしなきゃ、、、といつも考えていて、何かをすれば、どうにかすれば平安になれると信じています。
つまり、欠乏の原理で突き動かされていることが分かってくるわけです。
私たちはそのようにしていまここの平安を避け続けているのです。
そう、私たちが学ばなければならないのは、欠乏の原理に突き動かされているかぎり、けっして満たされることも幸せになることもあり得ない、ということです。
つまり、自我(の思考体系)と同一化したままでいるかぎり、そこには平安も幸せもないのだということです。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることが理解されるようになるにしたがって、私たちはそのことをはっきりと自覚/認識するようになっていくわけですが、むしろ、そこからが本格的なコースの学びと実践のはじまりだと言うことができるでしょう。
狂気の思考体系をまるごと全面的に認める
上記でも述べたように、私たちは常に自我と同一化した状態になっているといえましょう。
もし正気であるならば、自我の狂った声を聞き続けているかぎり、幸せになれるわけがないことは明白なわけですが、なにせ、自我の思考体系と同一化した状態では、それが完璧な一貫性のある思考体系として帰結していることもあって、なかなかその狂気さを認識することができないわけです。
それが、今の私たちの状態だといえましょう。
コースが教えていることに基づいて自分の内側を観察していくならば、四六時中、自分は自我の声を聞き続けているだけではなく、その自我の声がとうていまともじゃない狂った思考体系である、ということが理解/認識されます。
もはや、自分(自力)で自我から脱却することが、私たちにとっては絶望的な状態になってしまっていると言うことができましょう。
だからこそ、自我の思考体系ではないその外側のイエス/聖霊(という象徴)が私たちには必要不可欠なのです。
それが狂気であることを自覚しないかぎり、私たちはどうやって狂気から脱却して、正気に戻ることが可能となるというのでしょう。
ここで私たちが学ばなければならない大事なことは、上記のテキストの引用文で述べられている”徹頭徹尾”とは、一部分だけ、部分的にではなく、まるごとすべてが狂気なのだということです。
ある部分だけは狂気として認めてある部分は例外を設ける、ということではありません。
自分はまとも(正気)じゃない、自分は狂っている(間違っている)、と全面的に認めることが私たちに求められているということです。
一歩下がって、イエス、聖霊を教師とする、とはそういうことです。
それは、個別性、特別性を明け渡すということでもあります。
そして、それが私たちが修得(マスター)していくべきものだといえます。
そうしていくことによって、私たちは個別性、特別性というものを超えていくことになるだけでなく、全一なる本当の自分(真の自己)を思い出していくことになるのだということを知っておくと良いでしょう。
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