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コースを学んでいくには、果たして聖霊やイエスが必要なのだろうか?


コースの独特な言い回し表現について

真理に至るために、神との合一に至るために、そのためのスピリチュアリティ(霊性の道)をいわゆる一元論のスピリチュアリティあるいは非二元のスピリチュアリティと呼んでいます。

そして、それらは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)以外にもたくさん存在します。

そういう意味で、コースは、たくさんある一元論あるいは非二元のスピリチュアリティの中の一つの霊性の道にしかすぎないと言うことができます。

とはいえ、コースを学ぶのであるのならば、コースの教えを理解していくこと、さらにはその教えに基づいて実践をしていくことが求められているのは当然のことだといえます。

ただし、コースを学んでいく上で気をつけなければならないのは、「聖霊(イエス)と共に見る」とか、「聖霊(イエス)を教師とする」といった表現をするわけですが、それがどういうことなのか?について、私たちはしっかり理解しておく必要があるということです。

というのも、私たちはコースの言葉を通して学んでいくので、まるで「聖霊」や「イエス」が存在しているかのように勘違いを起こしてしまいますし、その「聖霊」や「イエス」という存在と共にコースの霊性の道を歩んでいくような解釈をしてしまうからです。

それらはコースの独特な表現であるということ、そして、それらの言葉はすべて象徴(シンボル)であり、すべてが比喩で語られているということをしっかりと理解して、そrのことをわきまえて学んでいく必要があります。

ですが、そういうことを理解できるようなるためにはかなりの学びと実践を要することになるということも知っておくと良いでしょう。


なぜ聖霊(イエス)が必要不可欠なのか?

コースの教えでは「聖霊」「イエス」といった言葉が頻繁に使用されることもあって、それゆえコース学習者の中には、なぜ聖霊(イエス)が必要なのだろう?といった疑問を抱く方々もおられるのではないでしょうか。

まるで聖霊やイエスという存在がいなければ、一元論のスピリチュアリティを歩んでいくことは不可能であるかのように思ってしまうわけです。
(たしかに、コースの言葉を使えば、聖霊やイエスなしでは目覚めはあり得ないと言うことができます。)

そうだとしたなら、コース以外の他の一元論のスピリチュアリティ(霊性の道)を歩んでいる探究者がこの世界の夢から目覚めることは不可能ということになります。

でも、そうではありません。

私たちが覚えておかなければならないのは、「聖霊」「イエス」という言葉は単なる象徴(シンボル)として表現されているだけということです。

もし、その「聖霊」「イエス」の意味を履き違えて勘違いしてしまうならば、もはやコースの学びを危うくしてしまうということを知っておきましょう。

コースの用語として使用されている「聖霊」「イエス」とはいったいどういうものなのか?

コース学習者の私たちはしっかり形而上学的に理解しておく必要があるということです。

そして、

なぜ私たちにとって聖霊(イエス)が必要なのか?

といった疑問に関しては、コースが教えていることをしっかりと学んで理解していくようになるならば、その意味が自ずと理解されていくはずです。

ただし、そのためには、やはりそれなりの学びと実践が重ねられて理解されてくるものだといえます。

ですから、

なぜ聖霊(イエス)が必要なのか?

について、私なりになるべく分かりやすく書いてみようと思います。


この自分が夢から目覚めるのではない

なぜ聖霊(イエス)が必要なのか?

ということについて結論からいえば、

自分だと思っている「自分」は非実在(無)であり、その「自分」が目覚めるのではないがゆえに、

本当の自分(真の自己)を象徴するシンボルを「聖霊」と定義づけているだけだということです。

つまり、自分と思っているこの「自分」など本当はいない(無)なのだということを悟ることが、目覚めるというふうに言うことができます。

よく勘違いしがちなのが、コース学習者にかぎらず、非二元とか悟りとか真理を探究する者たちは、自分と思っているこの「自分」が夢から目覚めるのだと思ってしまいがちです。

私たちが知っておくべきことは、その「自分」が消えるとき、そこに「目覚め」があるのだということです。

そもそも自分だと思っているその「自分」自体が、嘘の自分なのです。

その「自分」は実在しないのです。

つまり、無、です。

ですから、その「自分」(小文字のself)は非実在だということを受け入れていくことが、このコースの実践でしていくことだということです。

そして、それと同時に、私たちがコースの実践を通して思い出していかなければならないのは、神の記憶、つまり真の自己の記憶を覚えているもう一人の自分(大文字のSelf)がいるのだということです。

そのもう一人の自分(真のアイデンティティー)を思い出していくことが、コース学習者の私たちが実践を通して成し遂げていくものであるわけです。

そのもう一人の(真の)自分こそが、「正しい心」と呼ばれているものです。

ただし、私たちは自我と同一化してしまっており、「正しい心」の自分を解離して忘れてしまっています。

コースでは、その「正しい心」を「聖霊」と呼んでいて、さらには、「聖霊」の具現化した象徴を「イエス」と呼んでいるということです。

言い換えるなら、聖霊とは、本当の自分だと言うことができます。

ちなみに、「聖霊」「イエス」という言い方で呼んでいますが、実際のところ、その呼び方は何でもいいのです

(コースでは、キリスト用語で書かれているだけで、その言葉は象徴であり、シンボルであるということを忘れてはなりません。)

話のテーマを戻すなら、

なぜ聖霊(イエス)が必要なのか?

というなら、私たちは「自分はこの世界に存在している」「この肉体が自分である」というふうに知覚しているわけですが、その「自分」など実在していないからこそ、真の自己を象徴するものとして聖霊(イエス)が必要なのだということです。

私たちはすでに偽りの自分(自我)と同一化してしまっているということです。

そして、それを自分だと信じているだけなのです。

そうなってしまったからには、私たちはもはや自分ではどうすることもできないということです。

その自分は自我であり、その自我の自分はわが家に帰る気などまったくないのです。

私たちは自分一人ではわが家に帰れないとはそういうことです。

ですから、私たちにとって、正気の部分の自分、本当の自分を覚えている存在、教師、導き手が必要となるわけです。

コースでは、それを、「聖霊」「イエス」と呼んでいるということです。

あくまでもそれは、私たちの真のアイデンティティー(本当の自分/真の自己)の象徴なのだということを忘れてはなりません。

なぜ、聖霊(イエス)が必要なのか?というなら、そういうことです。

聖霊(イエス)がいなくても自分一人で目覚めることができると、もしそう思っているとしたなら、「その自分こそが本当は実在しないのだ」ということをまだ分かっていないということです。

その自分(自分だと思っている自分)はあくまでも自我であり、嘘の自分でしかありません。

その自分がいくら目覚めようとしても、あるいは、聖者になろうとしても、所詮、実在しない影にしかすぎないということです。

まずは、そのことをしっかり理解すること、そしてそのことを受け入れていく必要があります。

これまで自分だと思っていた自分が嘘だったと理解する(悟る)なら、その「自分」を明け渡す(放棄する)ということの真の意味も分かるようになります。

その実践を、コースでは、「聖霊(イエス)に明け渡す」「聖霊(イエス)にゆだねる」と呼んでいるということです。

そして、自分だと思っていた「自分」を明け渡すとき、そこにもともと在り続けていた真のアイデンティティーが顕わになっていくといえるでしょう。

それは、「自分はいない」「自分は幻想だ」とただ否定していくだけの実践なのではありません。

それは、嘘の「自分」(self)から神の記憶を覚えている「真の自己」(Self)へとシフトしていく道なのだということです。

それが、自己概念(アイデンティティー)のシフトと呼んでいるものです。

コースの実践ではそのようなことをしていくのであって、そしてそのための手段(方法)が「赦し」なのだということです。


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