見出し画像

日記:2023/12/23 職場の飲み会、寂しい帰り道

私はお酒を辞めて3年が経過した。
先日、職場の送別会があり 欠席するわけにもいかず参加した。

神田駅周辺の居酒屋で行われた。昔のような飲み会の雰囲気はない。
比較的みんな 大人しく飲んでいる。それとも、私が経験してきた昭和の飲み会のイメージが古いのか。
はたまた、店の雰囲気が比較的良いので、どんちゃん騒ぎをするようなお店ではなかったからか。

たぶん、今回は 後者であろう。今回のお店は 飲み放題付きで なんと4800円。単なる飲み会で使うには少し高い店で行われたのだ(会社の経費で)。
居酒屋の値段設定は ある意味、客層を分けるフィルタになる
高い居酒屋を使う場合、その時間とその空間を よりよく自分のものとして使うことができる。逆にリーズナブルな居酒屋を利用うした場合 強制的に時間と空間を赤の他人と共有させられることになる。

リーズナブルな居酒屋だと、仕切りも壁もない広いテーブル席に通されて、客の会話がフラットに聞こえる状態で飲み食いする。
そして、各自、声の音量が調節できなくなり 会話もしづらくなりさらに音量が上がってきてハウリングのように音の洪水となってしまう。
こうなるともう 会話というより声を出してなにか、一体感に包まれるような不思議な空間になる。
酒に酔った人たちは 大きな笑い声や、手をパチパチ叩いたり、時には 大笑いして卓をバンバン叩いたりする(少なくても私はそういうタイプの呑んだくれだった)。
時には 力の加減を誤って ビールジョッキが机で音を立て、調味入れが飛び上がる。
よくリーズナブルな居酒屋で飲んでいたが、音の洪水の中よく会話ができていたものだ、と 今更ながら感心する。
泥酔していると 会話内容というより 相手と話をしているという「状態」が保たれている事だけが重要になっているのかもしれない。

今回は 職場の飲み会ということと 仕事の上役が来ていたので 大人しく終わった。
酒を飲まない(飲めない)私は うまく喋ることもできず、ニコニコしながら なるべく話を盛り上げて、ビールジョッキの烏龍茶をすする。
22時にお開き。

飲み会のあとのぐだぐだ感が苦手
店の前でたむろして、帰るんだか、帰らないんだかわからない状態で冬の風に吹かれている状態。誰かが帰るまでなぜか帰ろうとしない
別にその集団から離れて帰途についたところで、その人の悪口が始まったり、残りのメンバで 本当の飲み会が開催される訳ではないことは 知っている。
いわゆる人間の本能である 「Fear of Missing Out(FOMO):他人が経験している楽しいことや重要な出来事を逃しているかもしれないという恐怖」が 酔っ払いを店の前にたむろさせているのではなかろうか。

私は 大酒飲みの頃から 飲み会のあとはさっさと帰ることにしている。泥酔していてたら、場の空気など読まず(読めず)、余計にさっさと帰途についていた。

なお、飲み会のあと 一人帰宅するときは寂しいというか、ほんの僅かに 酔いが覚める気がする。

多分、私は酒を飲んで集団で多少 騒いで充電できれば、集団を離れることが必要となるタイプだったのかもしれない。

そんな事を思い返しながら 店から最寄り駅までの 帰り道、道にあふれる酔っぱらいを かわしながら歩く。
みんな 酔っ払って今を楽しんでいる。

私自身が初老のおじさんだからであろうが、道にあふれているのは中年の同い年のおじさんが目につく。
酒に酔ってフラフラしている人は微笑ましいが、「もう自分はアチラ側(酒で泥酔すること)には行けないのだなぁ」と、若干寂しくも感じる。
が、別に酒を飲みたいとは思わない。
私は これまでで十分すぎほど、人生を酒に費やしてしまってきた。

私には もうこれ以上支払える 飲み代(人生)がポケットに残っていない

神田駅に溢れている酔っぱらいは、すべからく全員 酒とうまく付き合うことができる幸福な人たちであり、私とは違う 器用な人達なのだ…。

そんな自嘲的な事を考えながら 到着した神田駅はあまりに眩しかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?