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私が、断酒を決意した理由

飲酒をやめようと10年以上試みても成功しなかった経験から、断酒はただ方法を教わるだけではなく、秘訣があるとなんとなく分かってきた。

少なくても断酒を実現するためには、本人の強い決意(考え方を変えること)が必要だと思っている。断酒の方法を学ぶのはその後のことだ。
私の場合、断酒ができたのはいくつかの要素が整ったからであった。

今後、詳しく記載するがとりあえず 今回は断酒を決意した理由だけでも簡単に書いておこうと思う。


■私の異常な飲酒習慣に気づいた瞬間

なぜ飲むのかって?うーん….。

一人暮らしでほとんどが一人飲みだったため、自分の飲酒量が他人よりも多いことにあまり気付かなかった。しかし、久しぶりに会った家族(ほとんど酒を飲まない人たち)との食事で、後日「お前の飲み方はちょっと異常だ」とはっきり言われて初めて気づいた。飲み会では赤の他人からそんなことを言われたことがなかったので、家族の率直な指摘には驚いた。親族だからこそ正直に言ってくれたのだろう。ただ、その時は「私は酒飲みだから、多少は仕方がない」と思って、あまり気にしていなかった(むしろ酒に強いことを誇らしく感じてもいた)。

さて数年後、職場に気になる異性が現れた。
彼女はお酒に関心がなく、私に対して「ナゼ、ソンナニ オ酒、飲ムカ?」と直球で聞いてきた。
彼女が海外出身だったためもあるが、その質問の鋭さに不意をつかれてしまった。当時、どう答えたかは記憶にないが、明確に返答できなかった。

この瞬間から、「なぜ私は酒を飲み続けるのか」という疑問が心に残った。

残念ながら、彼女とは親しくなることはなく、なぜ酒を飲むのかという質問への答えも出せずに 現場は解散して互いに別の現場に移動することになった。
この経験がきっかけで、自分の飲酒量が異常だと認識し、飲酒習慣に小さな疑問の芽が出始めたのだと思う。

■楽しさが消えてしまう?飲酒の変化を感じる

以前は飲むだけで楽しい楽園に行けたのに、
今や不愉快な砂漠にしか到着しない

その後、仕事のストレスから酒量は増え続けた。休日には朝から強い酒を飲むようになったが、徐々に酔いづらくなってきた
アルコールを過剰摂取し続けると体にアルコール耐性がついてしまうのだが、正しくそれであった。

仕方なく、様々な対策を試みたが あまり効果は出なかった。

ついに、酒を飲んでも昔のような高揚感が得られず、その代わり すぐに吐き気を感じるようになり、さらに飲むとブラックアウト(気絶するように寝てしまう)するようになった
これは全く楽しくない。目が覚めると、時計の針が進んでいるだけで、酷い二日酔いだけが残っている。

長年「酒さえ飲めれば人生に贅沢は言わない」という生き方をしてきたが、酒すら楽しめなくなったのは大きなショックだった。
かつてはお酒が私を楽園へ導いたが、今はこの一杯がただの荒れ果てた砂漠へのチケットに過ぎない。

酒飲みの意地もあり、休肝日を設けることなくどうにかして酔える方法を探し続けたりした(まずは、ワインなどの弱い酒で体を暖気させてから、酔が程よく回ってきたら強い酒を飲んでみる…とか)。

夜勤明けのある平日、昼間の公園でワンカップ大関を飲みながら ぼんやりと「そろそろ潮時かな」と思った。桜の咲く直前、初めてのコロナ禍による「不要不急の外出制限」が施行された頃で、大きな公園だったが人がいなかった。
なお、ここで焼酎「純(720ml)」のボトルではなく、ワンカップ大関を選んだのは、「焼酎のボトルを公園でラッパ飲みするのはアルコール依存症患者そのものであり、マナー違反だ」と、まだ残っていた理性によるものだった。

しかし、今になって思えば、ワンカップ大関を手に平日昼間から公園のベンチに座っていた時点でアウトであり、ちょっとどうかしていた といわざるを得ない。
とにかく、「酒はもう私を楽しませてはくれない」と気づいたことが、断酒へ向けた重要な一歩だったと思う。

■オレの人生、本当にこれでいいのか?

酒を飲んでいるだけの毎日
オレは本当にこれでいいのか?

2020年はコロナ禍が全世界を覆い、日本を含む各国が大きな不安に襲われた。まるで第三次世界大戦(対コロナ戦)が始まったかのような緊迫した空気が漂い、ニュースは毎日コロナ関連の報道で溢れていた。

死者数の報道は日増しに増え、その恐怖にどう対処すべきか誰もが途方に暮れていた。死者数は増え続ける一方で、生きたいと願っても生きられなかった人々がいる。私はただニュースを見ながら酒を飲んでいた。

私は、本当にこれでいいのか?」「今日生きられている自分が、酒を飲んで死人のように二日酔いの休日を過ごすのは正しいのか?」「なぜ、私は酒を飲み続けるのか?」と、静かに自問自答するようになった。

しかし、酒飲みにとって、正気でいられる時間は実際には少ない
(アルコール依存の場合は 脳を直接、酒でヤラれているので 普段から正常な判断がしずらい…がその辺の話はまた別の機会に書くとする)

アルコール依存の人が
マトモに考えられる時間は圧倒的に少ない

一日の暇な大部分を泥酔やブラックアウト、二日酔いで過ごし、頭が全く働かない。酒を飲むと「私はなぜ酒を飲み続けるのか?」という自問自答も意味をなさなくなる

しかし、人生には限りがあり、その事実は誰にでも等しく、ニュースを見る度にその現実に直面する。
一人きりの部屋の中、コロナ禍で「死」が一層身近なものとなり、断酒に向けて 漠然と決心が整っていったのだと思う。

■フレネミーな酒との決別

酒によって体が疲れ果てると、どれだけ寝ても疲労感が抜けない

酒を飲むと体はどんどん重くなる一方で、飲まないと体調が徐々に良くなることが実感でき、その結果、考え方も変わり始める(やっぱり、酒は毒物なんだなぁ…と体感する)。

ただ、酒を飲まないことで体調が良くなると、1日ぶりに飲む酒が美味しく感じられ、わずかな高揚感を求めて 改めて酒を常飲する日々に戻ってしまう。よって、酒飲みが酒に対して 客観的な決断を下すにはとても時間がかかる

だが、酒が段々と 昔ほどの楽しみを与えなくなると、「もう酒を辞めるべきか?」と思う回数は次第に増えてゆく。
そして、密かに「酒を辞めれば人生が変わるかもしれない」という淡い期待も持ち始めてくる。というのも 酒を飲まずに寝た日は 明らかに体調が良くなるのだから。

そうすると、酒はもはや当初の「楽しい友達」ではなく、私の健康を奪いながらわずかな楽しみを提供するという、「厄介な貧乏神」に成り代わっているのだと理解できるようになってくる。

程々に楽しめていれば良かったんだけど…

こんな不平等な関係では、酒を人生の友として選ぶべきではないと徐々に断酒に対する決心が決まってきた。
いわば、フレネミー(友達を装った敵=「friend / 友達」と「enemy / 敵」を組み合わせた造語。)を 自分の人間関係から切り離すのと同じだ。

■最後に

2020年の断酒決意から、今2023年のこの瞬間まで(まだ3年ではあるが)断酒は続いている。

この記事を綴りながら、私はグラスのソーダ水を半分楽しんでいる。
グラスに残る透明なソーダ水が、静かに、しかし確実に音を立て続ける。

私の過去は酒に委ねていたが、これからの未来はまだ手付かずなのだ。

残された時間を、もう半分失ってしまったと悲観するのではなく、まだ半分もの可能性が広がっていると前向きに捉えることにする。

読んでいただきありがとうございました。

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