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恨んでいて欲しい

どうか私を許さないでいて欲しい。ずっと弟にはそう思っている。

私は兄として失格なのだ。ふとした瞬間にそんな責任逃れの悔恨を抱き締めてしまう。例えば弟のLINEのアイコンが変わった時や弟の好きなアーティストを何かでチラりと見かける度に。


弟は私が6歳の時に生まれたそれなりに歳の離れた子で、やはりそれなりに可愛がっていた方だと思う。近所の中で年長者だった私と兄はよく近所の子供達と遊んでいたし、およそ面倒見の良い方であった私は弟よりも歳の下の子に限れば全員のオムツを替えたことがあるほどだった。自分よりも小さな子供と遊ぶのは苦ではなかったし楽しかった。今にして思えばきっと私の精神年齢が兄に比べて幼かったのだろう。

そんな私の幼稚さ、幼稚なんて言葉では片付ける事は許されないか。愚かさ(コレでも足りないと思ってはいる)がエスカレートしたのは私が中学生に、弟は小学生になってからの事だった。いつぞやに書いた父の別居からだ。そこから地獄が始まった。私ではなく弟にとって。

父が家に帰らなくなって生活は一変したように思う。母は家に居る時間の方が少なくなり、中学生のましてや部活動をしていた私よりも圧倒的に早く帰ってくる弟はずいぶん寂しい思いをしていたんじゃないだろうか。少なくとも3年間、母親が蒸発するまでの間の弟に関する記憶は、映画のマダガスカルが異常に好きだった事と泣いている所だけ覚えている。母が毎日0時近くになるまで帰ってこないから腹が減って泣いていたり、泣いている事に腹を立てた母や俺や兄貴に怒鳴られたりしてとにかくよく泣いていた。特に母はヒステリックな人で家の中は母が物を投げて空いた穴だらけだった。弟はそれにまた怯えて泣いていたのだ。

弟はその頃小学生の低学年なのに毎日夜中まで起きていたり、コンビニとかの弁当ばかり食べていた。母は調理師の免許を持っていて私や兄は母の料理が上手かった事を知っているが、弟はよく覚えていないだろうな。少し悲しい事だなと思う。


私が高校に入って少しした頃、母が蒸発した。その時も弟はやっぱり泣いていたが父が帰ってくる事や、新しく義母が一緒に住む事に関しての順応は私や兄よりも早かった。母と違って義母はずっと家に居たし、毎日19時には夕食が出てきていたし父や義母は当初、弟をうんと甘やかしていた。まるで幼稚園児に接するように。今にして思うと父の中で弟の時間は父が家を出た時から止まっていたのだろう。ただ、甘やかしていたのは最初のうちだけだった。

コレもまた以前に書いた事だけれど父の教育は少しばかり苛烈だった。"二回言っても聞かないなら犬や猫と同じように躾ける"という言葉は俺たち兄弟にとっては何度も聞いた言葉で「犬でもわかるぞ」と言われながらよく怒られたり殴られていた。私や兄は当然のように受け入れていたけどもどうやら世間一般ではそうではないらしい。という事を私は高校生の後半で知った。知った私は何度か怒る父を止めようとしたがあまり効果はなかったし私は父のことが怖くて仕方がなかったので(今も怖い)強く出る事は出来なかった。今にして思えば取っ組み合いになってでも止めておいた方が良かったのだろうか。なんて事を思う。

弟は結局私や兄と同じ様に厳しく育てられ、私と兄が高校を卒業して家を出る時(北野家は18になったら家を出る。というルールがある)私は特に弟にはなにも言わなかった。「何かあれば言えよ」とか言っておけばよかった。と思ったが中学生になったばかりの弟はケータイも持っていなかったしどうやって助けを求めろと言うんだ。バカだな。

それからの二年間、とにかく私は遊び呆けていた。彼女が出来たり出来なかったりフラれたり運転中にサイドブレーキを引かれたりしていた。父や義母とはほとんど会う事は無く、弟にも年に数回会う程度だった。その頃の弟は中学生になっていて私が中学時代に創設した剣道部に入ってそこそこ真面目にやっていた様だ。私が小学生の頃からお世話になっていた師範にも「お前ら双子より筋が良い」と言われていた。そして弟が中学3年生になった頃、師範から連絡が来た。それは「最後の大会くらいは出してあげたいからお前が車を出せ」というものだった。父や義母は今まで一度も大会に行かせてはなかったようで、弟はなんの結果も成果も無しに部活を続けていたらしかった。最後の大会前に私は3年ぶりに父親へ自分から電話をして大会に弟を連れて行くから準備をさせておくように頼んだ。そして大会が終わってから弟をねぎらって(弟は3回戦で負けた)夕食のラーメンを2人で食べ終わる頃、時間はもう20時になっていた。私が「そろそろ帰るか」と言うと弟はまだ多分2人は帰ってきてない。と言った。なんとなく気になって聞いてみると父と義母は毎週2人で夜9時まで出かけているらしかった。弟は毎週末、朝9時には家を出され部活がある時は部活に行き、部活がない時は友達の家か児童館に行っていたらしい。昼飯で与えられるのは菓子パンや惣菜パン2つくらいの物で夏場でもそれは変わらず、ジュース代に2、300円渡されるだけだった。と弟は言っていた。さらに去年の盆に父と義母から祖母の家に送られてきた京都土産の話をしたら弟は行っていないと言った。私は我慢が出来なかった。何故そんな事をする必要があるのだ。暗に弟が邪魔だと言っているようなものじゃあないか。俺が質問する度に弟はバツの悪そうな顔をしていた。結局その日は父らが帰ってくるまで弟と2人でコンビニでアイスを買ったり、こっそりお小遣いをあげたりして過ごしていた。

それから私は定期的に弟を誘うようにした。私の仕事は工場勤務なのだが私の部署は土日休みではなく、1ヶ月に1回土日にかぶる休みがあるかないか程度のものだったから高頻度で会えはしなかったが、夜勤の時は朝仕事終わりに迎えに行ってマンガ喫茶か私の部屋で過ごしてから夜勤が始まる前に家の近くの喫茶店で弟を下ろしたりして、なるべく弟が1人になるような事がないようにした。(もちろん友達と遊ぶからと言って断られた事もある。弟には友達が多かった)

そうこうしているうちに実家の近所に住む当時女子高生だった子から「児童相談所が来ていたよ。大丈夫?」という連絡がきた。父の教育は苛烈だったし想像に難くなかったはずだったが私は目を背けていた現実に首根っこをとっ掴まれた気分になった。その週の土曜日、私は会社を休んで弟に会いに行った。弟は私の部屋でたしかに「こんな家はつらい。邪魔なら父さんも母さんも俺を殺してくれれば良いのに」そう言って泣いた。私は涙が止まらなかった。

まず私は兄に相談した。兄は当時仕事の都合で鎌倉に住んでいて、私や弟たちが住んでいる岐阜からは遠く離れていた。「高校を機に俺が弟と暮らす。兄貴は反対か?」という旨の相談をしたと思う。兄は快く「お前がそうしてくれるなら俺も金の面では援助する」と言ってくれた。私は兄にも押され決意を固めていた。

最初に反対したのは祖母だった。私ら兄弟と母方の祖父母には元々縁がなく、反対したのは父方の祖母だった。「現実的に無理がある」そう言っていた。確かに私は仕事がある日はいつも13時間は帰ってこないし休みの日も少ない。弟にも負担をかけることは明白だったがそれでも私はいつでも帰れる家を用意したい。暑い日も寒い日も雨の日も雪の日も父と義母が帰ってくるまで家にも入れずに帰りを待たされるなんて事は弟にこれ以上させたくなかった。私の中で祖父母は母が蒸発した時に残していった借金を全て返済してくれた人たちで、私は2人から了解を得れなければ筋が通らないと思っていたから必死で説得した。祖父はいつも酔いどれだったから決定権を持っている祖母に毎週会いにいって話をしていた。そうしていたら祖母は一つ条件を出した。それは「母を迎えて3人で暮らせ」というものだった。私は到底耐えられそうになかったが弟がそれで良いなら良いだろう。私は弟に「お前さえ良ければ母と俺と3人で暮らさないか?」と聞きに行った。弟は首を横に振った。弟の中では父や義母だけでなく母も恐怖の対象となっているようだった。

その日の夜、父からの電話があった。烈火の如く怒っていて私が母の名前を出したことに対して怒っていたようだった。私も「児童相談所まで出てくるような事しておいて何を言ってるんだ」と怒鳴り返した。結局電話では決着がつかず後日祖母を交えて祖父母の家で3人話し合うことになった。

だがやっぱりそれは話し合いにはならなかった。父は「コレが俺の教育だし躾だ。お前らもそうやって大人になって今立派に働いているだろう。俺が育ててやった恩を仇で返す気か。父親に怒鳴るなんて100年早い」と言った。はらわたが煮え繰り返りそうだったからハッキリと覚えている。私はカッとなって「邪魔なら殺してくれと子供が泣く様な所まで追い込んでおいて親を名乗るな。金が恩なら俺がどんな仕事してでも返してやる。時間が恩なら今すぐお前を殺して俺も死んでやる」と言ってしまい、顔を真っ赤にした親父に殴られた俺が殴り返そうとした時、祖父が止めにきて結局話し合いにはならなかった。「弟には定期的に会いに行く。飯の一回でも抜いてみろ、アザの一つでもあってみろ。俺は警察だろうが弁護士だろうが揃えるからな」と言うと痺れを切らした祖母が「私が定期的に見に行くから喧嘩は止めてくれ」と言った。その日はそれで終わりだった。父は帰る前にボソリと「俺が今アイツを育てているのは罪悪感からだよ」と言った。父は国語が下手だったから今思えばきっと悪い意味ではなく、責任を感じている。と言う意味だったのかもしれないと思うが私はどうしてもそれが許せず、ただ祖母の顔を潰すことも出来ずに立ち尽くしてそれを聞いていた。

その後私は定期的に弟に会っていた。私と弟は一緒に住む事は諦めつつあった。「俺の家に近い高校にすると良い。たまに下宿代わりにしてうんと遊ぼう。勉強も教えてやるし小遣いもやれる」私がそう言うつもりだったある日、弟は全寮制の高校に行く。と言った。県内だがうんと山奥にある高校で、私が住んでいるところから車で2時間以上かかる所だった。私は「お前が良いならそれで良い」と言う他なかった。少しだけ肩の荷が降りてしまったことが情けなかった。

結局弟は自分で言った通りに全寮制の高校に通い、3年後の今年の春、私の家の近くに引っ越してきた。(と言っても車で30分程だが)弟が高校の時も弟のタバコがバレて停学になったり、弟の彼女がめちゃくちゃなギャルで私と趣味が合いすぎる事実が発覚したりしたのだがこの話は割愛。弟は無事父の庇護から離れたのだった。私は弟の引っ越しや生活が落ち着くまで何度か会いに行っていたがもう彼は彼女と同棲を始めていたので4月からは一度も会っていない。

結局弟は今幸せで、私は何も出来ず独り相撲をしていただけだった。情けない事この上ない。こんなお兄ちゃんでごめんな。もっと早く動けていたら、もっと賢く立ち回れていたらお前はもっと早く幸せになれたんだろうな。とたまに思っている。世界は俺がいなくても回る無力感や情けなさを痛感している。だから4月から書いているコレもみっともない私の自己満足なのだ。時間も文字数も随分長くなってしまった。


弟が、俺が死んだ後に「嫌いだったよ」と言ってくれたら救われる気がしている。

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