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GGJ2018 key noteがパンクだった話

GGJって知ってる?

グローバル・ゲーム・ジャム、略してGGJ。
 ゲーム・ジャムとは「みんなで同じテーマでゲームを作ろうぜ!」というゲーム開発方式でして、一週間ゲームジャムとか、unityとかがよくやってますよね。
 GGJはその超大規模版で、ギネスブックに載っているレベルのもの。1月の3日間、世界各地に設置された会場に集まって、みっちりゲーム開発に費やし、完成まで行こうぜ!っていうもの。
 個人ゲーム開発はどうしても家にひきこもりがちで、交流も少なくなりがちですが、それを外に出て、新しい人に出会い、新鮮なチームで完成までもってこうという、割とリア充で意識が高いイベントです。



 GGJの歴史は思っていたよりも長く、2018年でちょうど10周年を迎えた。
 YouTubeで公開されたkey note…イベント開催時に各会場で流される挨拶映像とテーマ発表を合わせたもの、も特別仕様だったんだけど、それがもう衝撃的だった。

 おおよそ20分の構成で、前半10分はGGJの歴史を振り返る映像。女性がベイエリアの美しい風景と共にGGJの思い出や信念を語っていく様は感動的ですらあります。

 しんみりとした気持ちになり、さぁゲーム開発頑張ろうかな!という気分になった最中。



このおっさんが現れる。

 後半10分は謎の「ゲーム開発エクササイズ」。ゲーム開発を行う上で硬くなりがちな体と頭を、体操のおじ…おにいさんと一緒に柔らかくしようという謎映像。
 「慣れ切った環境から外に出よう!」「他人の意見に耳を傾けて有意義な議論を」…チームワークを円滑に進めるのに必要なアドバイスとともに、おっさんとCGのニワトリが変な動きをする。
けれど、おっさんが語るのはチームワークの重要性だけではなかった。


フォーエヴァーパンク!!

『ステイ・アンダーグラウンド』『ファック・ザ・メインストリーム!』というその言葉は……え?なんで?
それは、パンク・ロック、およびオルタナティブ・ロックの言葉だよ!
なぜゲーム開発で出てくるんだ!?


そんなわけで、今からロック文化史、ユースカルチャーの話をします。
ゲームの話じゃないんだ、ごめんね!!



 オルタナティブ・ミュージックとは音楽派生の一種。
 わたしはロック文化について調べているけれども、その結果、ロックは幾度も幾度も「カウンターカルチャー」の起こりを繰り返して、変化し広がっていったことがわかった。


ロッカーズだっせぇな!モッズだ!モッズだっせぇな!ヒッピーだ!ヒッピーだっせぇな!パンクだわ!

 こんな感じで、「そのルールだっせぇ」を繰り返して新しい文化が生まれたんですね。やがて、保守的な「ハードロック・ヘヴィメタル」と革新的な「パンク・ロック」にわかれ、ヘヴィメタルはアメリカ音楽シーンのメインストリームに、パンクはインディーズへと流れていくのです。

 カウンターカルチャーは新しいものが古いものへ反逆するものだったけれど、保守派と革新派に別れ、それがメインストリーム…流行的なものと、インディーズ…革新的な故にマイナーであったものに分かれれば、図式は

メインストリームVSインディーズ

 になる。やがて、インディーズは「素人のミニマムなマーケット」と呼ぶには大きくなり、「もうひとつの」という意味でオルタナティブと呼ばれた。

 そして90年代前半、オルタナティブ・ロックからニルヴァーナがデビューするとアメリカの音楽シーンを総なめし、一気にメインストリームに躍り出た。
 オルタナティブとメインストリームが逆転したんですね。グランジ・ムーブメントという音楽のみならずファッションにまで影響を残す大きな流行となったけれど、その中でオルタナティブが持っていた独自のスピリッツみたいなものは失われていった。
 現に、ニルヴァーナのボーカル、カート・コバーンは流行した後「メインストリーム狙いで音楽を作っている自分」に嫌気がさした、と言っているし、最終的には自殺してしまった。
 その後、元々がメインストリームに反発して出来たのがオルタナティブであるからして、なんかもう曖昧模糊になり、どれがオルタナティブなんだかよくわからない状態になってしまった。聞く人聞く人で解釈が違う有様に……
 そのまま音楽市場はネットの影響を受けて細分化に細分化を重ね、やがてメインストリームそのものがなくなってしまったのです。
 




 

調べると同じ事はほかの音楽ジャンルにも起こっていて、それどころか美術史にも起こっているんですね。
 美術は大きく分けて「現代美術」「前衛美術」に分かれるんですけど、常にこれらが互いに入れ替わりながら変化をしている。
 前衛的でつまらない美術を、現代美術が圧倒するけれども、そうなった現代美術はやがて前衛的になって、新しい現代美術に圧倒される、みたいな。


 でも……印刷物やネットが整備された今、現代美術ってなんだろう?
 よくわからないなぁ。現代美術という言葉、今聞くとともかく、すごくヘンテコリンで、敷居が高くて、狭いコミュニティになってるなぁ、という印象ではないでしょうか?少なくとも身近なものではない。



 ロックのみならず他の音楽ジャンル、美術にも起こっているのなら、それはゲームにも起こりえるということ。
 インディーズゲームの起こりというのを、わたしは詳しくは知らない。印象は『個人や少人数のチームで作るゲーム』という感じで、最近はunityやUE4の浸透、アプリやsteam、switchやPS4のコンシューマにいたるまで市場の拡大が行われていて、レッドオーシャンと言われるほど規模が大きくなってきた。


そこで危惧したのではないか?
GGJは未来を見たのではないか?このまま規模が大きくなれば、産業的になり企業に支配され、やがて『何か』が失われるということを。

 それはかつてのロックが失ったものであり、かつての美術が失ったものであり、そして現在インディーズゲームが持っているものだ。
 個性と呼ぶのか、カルチャーと呼ぶのか、それはわからない。ただ、ロック文化史にあるユースカルチャーは『若者が起こし企業が目を付けて産業化し、やがて骸形化して衰退する』をずっと繰り返してきた。


 

 ゲームとロックという、まるで全くジャンル違いの両者だけど、欧米の文化人はその文化史からカルチャーの興隆と衰退について肌身で知っているような気がする。

 そもそもアメリカのポップカルチャーにおいて『ヒッピー』の存在はとてつもなく大きいし、多分文化的なことをしよう、という人でヒッピーの存在を知らない人はいないと思うんだけど、ヒッピーこそカルチャーの栄光と失敗そのものだ。
 Appleのスティーブ・ジョブズはヒッピーであるし(そのためにガン治療が遅れて早死にしてしまった…)、シリコンバレーがあるサンフランシスコにはヒッピーの聖地ヘイト・アシュベリーがある。


 60年代から70年代にかけて大流行したヒッピー・ムーブメント。それは音楽やファッション、映画、本、あらゆるポップカルチャーに多大な影響を及ぼしたが、大流行の末骸外化したその末路はドラッグ、セックス、殺人だ。

 アメリカにはポップカルチャーの色んな栄光と末路が記録されていて、それが一般化されている。そこにジャンル違いなんていうものはなく、ゲームだろうとロックだろうと、文化的…ノナード的なことをするならかならず目にするんだと思う。


だから言うんだろう。
 『ステイ・アンダーグラウンド』…それは地下に居続けろ、と直訳すればなるけれど、そうではない。
流行に流されるな、自分のあるがままに作れ、そのままで大丈夫、自分に正直になれ。
そういう暖かい励ましの言葉なのだ(なので字幕ではそう訳されているね!)



そしてゲーム作りを終わらせるな!作り続けろ!と続くんである。

 過去のポップカルチャーの衰退から学んで、インディーズそのものを守ろうとしている。それはポップカルチャー史において初めての試みで、成功するかどうかはわからないけれど……きわめてパンク的だ。

 インディーズロックはパンクから生まれた。そのことを考えると、インディーズゲームイベントであるGGJが、パンク用語を使うのはすごく、感慨深いなぁと思うのです。


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